今週のメッセージ

マルコ3:20~30        2017,5,15

『心の悪を追い出す』

今日は母の日で、カーネーションを贈るのが世界の習慣だと聞かされました。

私などは時代でしょうか、母に花を贈った事もありません。

でも、思い出すのは、いつも母の苦労です。

今になって、母をもっと大切にすれば良かった。感謝を表せば良かったと思います。

さて今日の聖書は、人の主人は誰なのか、自分なのか、それとも他の人なのか。

そして結局は、イエス様だというのが、結論の話しです。

まず20節には、『イエスが家に帰られる』とありますが、これは弟子のペトロの家です。

かつてペトロの姑の病気を、イエスが直しました。

それで家族が、お世話をするようになったのです。

このペトロの家が拠点になって、ガリラヤ地方での伝道活動がされました。

イエスはペトロの家を、ご自分の家のように思っておられました。

イエスは私たちの家をも、同じように用いて下さいます。

救われた感謝を、表わすのに色々な方法があります。

その一つが、我が家の主人として、イエスをお迎えする事です。

私たちの心を、一軒の家として見るなら、心にイエスを主人として招くのです。

すると多くの人が、救いへと導かれます。

次に、イエスの身内の者たちが、取り押さえに来た事が、言われています。

イエスは、「神の国は近付いた、悔い改めて福音を信ぜよ」と、述べて人々に救いを語り、貧しい人々や病人を助けてきました。              しかし身内たちは、イエスの行動を理解できませんでした。

「大工ヨセフの倅として、父親の死後は、イエスが家族の生活を見るべきだ」と考えていたからです。

イエスが、神の業を行い、人々に愛をもって導けば導く程、反発は強まりました。

ついに彼等は、取り押さえに来たのです。

イエスは身内や、故郷の人々の無理解を悲しみ、こう言っておられます。

『預言者は、故郷では受け入れられないものである』。

それは身内の人に愛がないからではありません。

その愛が小さすぎるので、イエスの大きな器を理解できないのです。

皆さんもクリスチャンになる時、また信仰生活をしていく中で、身内の人々からの反発を、大なり小なり受けた事があるのではないでしょうか。

家庭でも、社会でも、人と同一歩調をとる事が求められます。

キリスト教を信じるなら、保たれてきた和が乱されると考えるのです。

こんな事がありました。

若い人が礼拝に出席するようになり、それも熱心に来るようになりました。

すると親が来て言いました。

「教会に来て、娘は本当に良い子になりました。教会のおかげです。」

「でも洗礼だけは止めさて下さい。クリスチャンになったら親子の縁を切ります」と。

「本気になって、信仰を求めては困ります。世間に申し開きできないから」と言うのです。

親の反対は激しくなり、ある時には聖書を、窓から投げつけたられりしました。

それは家族を思う、小さな愛から出ているのでしょう。

でもこの人は、どうしても洗礼を受けたいと申し出ました。

私はイエス様に委ねれば道は開かれるのを信じていました。

それで親には内緒で、洗礼を授け、全てをイエス様にお願いしました。

洗礼を受けたのを知った親は、激しく怒りました。

数年間は教会に来れなくなりました。

でもやがて結婚をして自立したのです。

家庭生活の中でキリストを証しして行く中で、家族が教会に来るようになり、今では、その人は教会の中心になっています。

このように現在でも、クリスチャンになるには、勇気が必要になります。

私たちは、家族や周囲の人々には、それなりの配慮をして、イエスに委ねて行きたいと思います。

必ず道は開かれ、良き方向へと導かれます。

さて、エルサレムから来た律法学者たちは、イエスの身内がわざわざ取り押さえに来たのに乗じて、ひどい非難を始めました。

「イエスは悪霊のかしらである、ベルゼブルにとりつかれている。

悪霊の力によって、悪霊を追い出している」と非難したのです。

これはイエスが、病人を癒したり、悪霊に憑かれた人から、悪霊を追い出した事を言っています。

同じ事を目撃しても、それを喜んで、感謝する人もいれば、悪意をもって中傷する人もいます。

律法学者たちは、イエスが自分たちの理解を越えた、教えや救いを説いているのと、自分たちの言いなりにならないのに腹を立て、陥れようとしたのです。

何でもそうです。

器の小さい人は、相手が自分の言う事を聞けば、味方として扱います。

聞かなければ敵と見做します。

しかしイエスは、人によってその教えを変える事はしませんでした。

たとえ聖書の専門家である律法学者であろうとも、間違いは間違いと指摘し、神に従う事を説きました。

さて「悪魔のかしらが悪霊を追い出した」と非難されたイエスは、面白い話をしました。

「国の中で、内輪もめがあり、お互いに争いあって勢力を伸ばそうとするなら、内乱になり、国はなりたたない」という話しです。

それは当然ですが、それぞれの家の中も同じだと言われたのです。

確かに、夫婦や親子が争ったら、その家は成り立ちません。

一つの共同体を築くには、国でも家庭でも、平和が必要なのです。

家庭が何事もなく保たれているのは、多分誰かが忍耐をしているからでしょう。

ところで主人という言葉が、この頃、形骸化しているようです。

主人と言えば、夫を意味していましたが、最近は違ってきたようです。

言葉だけの主人と、本当の主人がいるからです。

それでは家の中の、本当の主人は誰なのでしょう?

夫でしょうか。妻でしょうか、子供でしょうか? 親でしょうか?

ある奥さんは、「主人とはこの私よ」と言うかも知れません。

「主人」にこだわる必要はないと思いますが、でも主人は必要と思います。

今日の箇所が伝えるのは、本当の主人は、イエスなのです。

人はイエスの救いを受けると、イエスが心の中の主人として、人を守り、豊かにしてくれて、平和が生じるからです。

もう一つの譬えが言われています。 強盗の話しです。

強盗が家に押し入ったなら、まず強い男を縛り付けます。

そうしないと抵抗されてしまうからです。

イエスが人の所に来て何をしたのでしょうか?

人を支配している悪の力、悪霊を縛り付けて無力にし、追い出しているのです。

私たちは、そんな事を意識したりしません。

でも実際はそのようにして、救いを受けているのです。

私たちは自分の醜い心をどうにかして、清い心にしようと努力しますが、なかなか出来ません。

けれどもイエスを、心の中にお迎えするなら、その偉大な力が発揮されます。

悪の力、罪の思いを、イエスが追い出して、神の愛と恵みで満たしてくれるのです。

法律や刑罰は、人が悪い事や、罪を犯さないように、罰を掲げています。

罪を犯すならば、人から非難され、罰を受けるでしょう。

それが怖いので、罪や過ちから遠ざかるのではないでしょうか。

でもそれは、刑罰があるので罪を犯さないのであって、本心から罪を否定するのではありません。

しかしイエスの救いは、神の愛で、私たちの心を満たし、罪を犯さないようにして下さるのです。

人の目や、刑罰が怖いから罪を犯さないのでなく、罪の誘惑よりも、もっと素晴らしい喜びがあるので、罪を犯さないのです。

神の愛と命が、私たちの心の中に満たされているからです。

これがイエスの救いです。

私たちは、イエスの救いを受けています。

心の中に神の命である、愛が満たされています。

ですから、罪の誘惑に引きずられる必要はないのです。

かえって罪の誘惑に弱かった私たちが、変えられて、罪と戦い、勝利するようになるのです。

しかしクリスチャンでありながら、なおも悪に引きずられている人がいます。

礼拝を捧げながら、平気で人を騙したり、罪を犯している人もいます。

それはどうしてなのでしょうか。

イエスの愛と恵みで、心を満たすのを忘れているからです。

信仰の戦いは、一度成し遂げたら、終わりではありません。

さらに神の愛で、心を満たして行くのです。

その為に、イエスの十字架を見上げ、慰めと励ましを受けて、日々新たにされて歩むのが大切なのです。

これをしないなら、元の状態に戻り、サタンの支配を受けてしまうでしょう。

ですから信仰の友の祈りと支えが大切なのです。

友によって励まされ、再び立ち上がるからです。

最後にイエスは28節で、私たちの罪に対しての警告をされました。

『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、全て許される。

しかし聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』。

どんな罪でも神は赦して下さいます。

イエスはそのように、人に接して下さいました。

十字架で御自分を殺そうとする人たちの罪をも赦そうとして、「父よ、彼等をお赦し下さい。彼等は何も分からずにしているのです」と執り成しの祈りをささげておられます。

また隣の十字架に付けられた極悪人のためにも、「あなたは私と共に、天国に行く」と約束しておられます。

このように私たちのどんな罪や過ちも、神は赦して下さるのです。

そのためにキリストは十字架についておられるからです。

しかし、『聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されない』と言われています。

これが問題です。なぜこう言われたのかは、30節でこう説明されています。

『彼は汚れた霊に取り付かれている、と言っていたからである』と。

彼等はイエスの救いを目撃したのに拒絶しました。

どんなに素晴らしい救いや教えを聞き、見ても、それを悪霊の働きだと、言い張りました。

そのような人は、神の救いを否定して、罪の中に自分を置き続けます。

自分自身を罪に定めて、良しとしているのです。

どうかそうならないように、イエスの愛と恵みを日々受けて、心を満たして行きましょう。

そして信仰の友の祈りと支えによって、いつも励まされて行きましょう。

これが私たちの信仰生活であり、信仰の仲間と共に歩む楽しい生活です。

 

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