今週のメッセージ

マルコ16:1~8            2018.11.25

『キリストの復活』

最近は、お骨を墓に納めないで、散骨葬と言いまして、海に撒いたり、山に撒いたりする人がいるようです。

けれどイエス・キリストを信じる人は、死が終わりでなくて、希望に溢れている事を、墓に表わすのです。

死んだならイエス様にお会いし、慰めをいただき、神様の愛に包まれるという信仰を、墓で表して来たのです。

私たちの教会の墓碑には、「私は復活であり、命である」というイエスの言葉が刻まれています。

その信仰を与えられた者としての生活をし、死ぬ時にも、復活のイエスに委ねる事を表すのです。

さて今日の聖書は、イエス様の復活です。

アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取り、亜麻布を巻いて墓へお納めしました。

あちらの墓は岩山の斜面を横に掘って小部屋を作り、遺体を安置します。

葬られた日から三日目の日曜日の朝でした。

まだ薄暗い時、マグダラ出身のマリアや女の弟子たちが墓へ向かいました。

イエスの遺体に香料を塗ってさしあげたいという、切なる思いからでした。

葬りの直後に行うべきでしたが、安息日が始まり、何も出来ませんでした。

それで日曜日の朝早く、まだ人が寝ている時に、墓へ向かったのです。

「誰が墓の入り口にある、あの大きな石を転がしてくれるだろう」と心配しながら向かいました。

墓の入り口の石は、機関車の動輪くらいの大きさと形をしています。

女の2,3 人では動かす事が出来ない、重く大きな石です。

本当なら、男の弟子たちが一緒に行って、動かすべきでした。

けれども弟子たちは、役人の追及を恐れて身を隠し、家の外に出ようとはしませんでした。

しかし女性たちは、「イエス様のお世話をしたい。仕えたい」と願いながら、墓に向かったのです。

いわば、主イエスへのひたむきな思いが、墓へと向かわせたのです。

ところが墓に行ってみましたら、どうでしょう。

あれ程心配していた大きな石が脇に、転がされていました。

いわばイエスを愛する、その愛に答える形で、神は障害となっていた大きな石を転がして取り除いてくださったのです。

私たちの場合も同じです。

イエスを愛し、求める思いがあるなら、たとえ大きな石のような障害が、前に立ちはだかっていても、お会いできるようにして下さるのです。

ですから大切な事があります。

障害物が無くなったから前進するのでないのです。

歩き始めるなら、道が開かれる。 大きな障害も取り除かれる場合があるのです。

もしも大きな石が取り除かれてから歩み出すのなら、信仰の歩みは前進しないでしょう。なぜなら信仰とは、神の助けを求める事だからです。

自力だけで事を決定するのでなく、神の愛の御手に委ねて、解決を求めるのです。

それが信仰生活ではないでしょうか。

自分で何でもしようとするなら、神の助けは必要ありません。

神の愛と力が、働いて行く道を備えて下さる。これが信仰ではないでしょうか。

女姓たちは、歩む事によって、不可能が可能になり、驚くべき事を目撃しました。

本来なら、まず12弟子が、復活の証言者となるべきでした。

ところが弟子たちは、家の外へ出ようとしませんでした。

神の導きを忘れて、我が身を守るために、ただ家の中に閉じこもっていたのです。

さて女性たちは、大きな石が取り除けられていましたので、墓の中に入れました。

しかし、そこで見たのはイエスの遺体ではなくて、真っ白い長い衣を来た若者が、右側に座っているのを見たのです。

その若者は、神からの御使いでした。

女性たちはひどく驚きました。

それは当然です

まず初めに大きな石が転がっていました。

次に墓の中のイエスの死体がなくて、一人の若者、御使いがいたのです。

全てが神の力による、復活の出来事でした。

しかし女たちは、それを受け入れられないで、驚いたままでした。

復活の出来事は、驚きから始まったのです。

イエスの復活は、単純に「分かりました。信じます」では、済なかったのです。

驚きが人を支配する事柄でした。

ある人たちはイエスの復活を、弟子たちが創作した作り話しである。

女性たちが作った話しだと考えています。

ところが実際は、そんな状態ではありませんでした。

彼等は墓で、御使いに主イエスの復活を告げられると、喜ぶどころか、恐ろしいと思っているのです。

それは復活の出来事が、人の考えられない、到底うけいれられないものだったからです。

女性たちは、恐ろしい事が怒ったと考えました。

神の力が働いたのを知った時、彼女たちはひどく恐れたのです。

これがイエスの復活に出会った者たちの姿でした。

私たちはイエスの復活を聞きますと、すぐに嬉しい、喜びだと考えますが、それだけではイ-スタ-の実態を半分しか知っていません。

復活は神のなさった事です。

ですからまず、人に恐れをもたらすのです。

死者の中から、イエスを復活させるのは神様の他にはおりません。

この恐れがあって初めて、深い感動や喜びが出てくるのです。

そしてキリストの復活は、何あろうこの私たちのために、神が起こされた恵みであるのが分かった時、心から神を賛美し褒めたたえるのです。

さて御使いは言いました。

『イエスは復活した。ここにはいない。さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。

イエスはあなた方より先にガリラヤへ行かれる。

かねて言われた通り、そこでお目にかかれると』。

イエスはゲツセマネの園で、弟子たちに『あなたがたは皆、わたしに躓く。

私は十字架に付けられる。だが私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』と言っておられます。

十字架と復活は、偶然の出来事でもなければ、イエスが突然、御自分で決めて行われたのでもありません。

一から十まで、全て父なる神様の御計画であり、人類を救うための永遠の御計画です。

神の救いの御計画は、イエスが十字架にかかる事で終りでもなければ、復活で終りでもありません。

始まりなのです。

弟子たちがガリラヤでイエスにお会いした時に、救いの計画が始まる事を、御使いは告げているのです。

なぜ、お会いする場所が、ガリラヤなのでしょうか。

都のエルサレムや他の所では駄目なのでしょうか。

ガリラヤは、当時辺境の地で、異邦人が多く、人々から見下された田舎でした。

しかし弟子たちや女たちにとってガリラヤは特別な所であした。

ガリラヤこそ、彼等の故郷であり、仲間もおり、生計を立てていた所でした。

いわば生きていく生活の場だったのです。

ですから弟子たちは、イエスが十字架にかかると、失望して故郷のガリラヤに戻り、

元の漁師で生活を立てています。

そのような生活のただ中で、復活のイエスに出会うのです。

ところで復活信仰は、キリスト教でなくてもあります。

古代エジプト人も復活信仰を持っていました。

太陽が沈んでまた昇るのと同じように、人間も死んでまた復活する事を信じていました。日本の宗教にも復活信仰は、形を変えてあります。

輪廻転生という言葉のように、人は死んで生れ変わると言うのです。

キリストの復活もその一つなのでしょうか。

単に、人は死んだら復活をするという信仰なのでしょうか。

そうではありません。

御使いが、『復活のキリストは、ガリラヤの地で弟子たちとお会いする』と語るように、私たちの生活の直中で、復活のキリストにお会い出来るのです。

その事が、『弟子たちとペトロに告げなさい』という御使いの言葉で示されています。

弟子たちもそうでしたが、特にペトロは主イエスを否定し、裏切った人です。

人から「あなたもイエスの仲間だった」と言われると、イエスを呪ってまで助かろうとした人でした。

ですからペトロは、他の弟子たち以上に、罪意識と負い目を持っており、たとえイエスが復活をされたと言われても、喜べませんでした。

しかし御使いは、意気消沈しているペトロの過ちを赦すために、ガリラヤの地でお会いすると告げたのです。

復活イエスは、御自分を裏切り、捨てて逃げ去った弟子たちを、ペトロをなおも求め、その罪を赦して、愛し、新しい復活の命に至る歩みをさせて下さるのです。

ですから罪の赦しと恵みを受ける事なく、どんなに私は復活を信じていますと言っても、それは無意味です。

勿論、弟子たちや女たちがしたようには、私たちは自分の目で復活のイエスを見、自分の耳で、その声を聞けません。

しかし、信仰の目で、耳で、心で復活のイエスにお会い出来るのです。

確かにイエスは復活された。イエスは墓から復活して、今も生きて、私たちの中に働いて下さるのを証し出来るのです。

それは、自分勝手の思い込みではありません。

どんなに思い込んでも、そこからは何も起こらないからです。

けれどもイエスが復活された事実、つまり私たちの罪が赦されて、愛と恵みが豊かに与えられている事実があるのです。

ですから復活の信仰を信じる人は、どんな事にも行き詰まりません。

たとえ行き詰まっても、復活のイエスが力強く支えてくれるからです。

恐れや不安におののく私たちに、いつもイエスが『恐れる事はない。わたしがあなたと共に居るではないか』と語りかけて下さるのです。

皆さん、イエス・キリストは私たちの罪の為に死んで下さいました。

そして陰府のどん底まで下られましたが、死に打ち勝って、復活されました。

ですから私たちはもうこのキリストの死によって、古い自分に捕らわれる必要はありません。

私たちの一切の罪、呪われた出来事、災いは全部キリストによって解決されているからです。

私たちのなす事、それは幼子のように「わが主よ、イエス様」と全部ゆだねて歩いて行けば良いのです。

そして駄目になったら、そこでまた「イエス様」と呼び求めて、行けばよいのです。

そうすれば、生けるキリストが一緒になって道を歩き、導いて下さるのです。

さて御使いの言葉を聞いた女たちは、喜んで弟子たちの所へ直ぐに行ったでしょうか。8 節には『婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり正気を失っていた。

そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである』。と言うのです。

実は本来は、マルコ福音書はここで終りになっていると言われています。

実際、そのような古い写本があるのです。

もしもそうなら、マルコ福音書は未完成で終わっています。

復活のイエスに出会った女たちは大喜びをして、報告を受けた弟子たちも大喜びをしたというのなら分かります。

でも女性たちは御使いの約束を守らずに、弟子たちに何も言わなかったのです。

という事は、私たち一人一人にバトンが渡されているという事ではないでしょうか。

私たち自身が、この時の女の一人なのです。

女たちは、イエスが復活した事を聞きました。

また故郷のガリラヤ、つまり生活の中でキリストにお会いする事を聞きました。

それをどのように受け止めるか、またどのように事実として体験して行くかは、私たちに任せられているのです。

信仰の道は、イエスが共に居られるのですから、大丈夫です。

期待して、歩んで行きましょう。

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