今週のメッセージ

マルコ12:38 ~44          2018,7,15

『まことの捧げ物』

今日は礼拝後に、小修養会があります。

その修養会に合わせたテーマが、今日の聖書です。

律法学者と寡婦の姿を通して、神様に仕える信仰生活を考えましょう。

先ずイエスは、「律法学者に気をつけなさい」と言いました。

律法学者が長い衣をまとい、公の場で挨拶される事や、上座を好むという事は、自己顕示欲や虚栄心が強い事を表しています。 また弱い人たちを、食い物にしている貪欲さが、明らかにされています。

彼等は聖書を読み、信仰の深い知識を持っていますのに、なぜ人からの誉れを求め、貪欲に陥ったのでしょう。

神のまなざしよりも、人のまなざしを喜んでいたからです。

神様は、全ての人の生活を御覧になっておられますが、それを意識して生きるか、生きないかで、大変な違いが出て来るのです。

これは、当時の人々への警告であると同時に、イエスを囲んでいた人々、特に弟子たち、そして教会の人々、私たちに向けての警告でも、あるのです。

私たちは律法学者みたいな強い虚栄心はありませんし、偽善的でもないでしょう。

でも信仰者でありながら、神のまなざしを無視して、自己中心的に生きていないでしょうか。

パウロがⅠコリ13章で言っています。

「私たちは、今はおぼろげに神を見ている。

だが、その時には神の御前に立って、顔と顔を会わせるように、はっきりと神を見る事になる」と。

やがて私たちは、必ず神の御前に立ちます。

その時、私たちは神から喜んでいただけ、お褒めの言葉をかけられるのか、それとも神が御顔を背けてしまわれるのかを考えたいのです。

人からどう思われるかではなく、神のまなざしを意識して、歩んで行きましょう。

さて、それからイエスは、神殿の賽銭箱の向かいに座っておられました。

大勢の金持ちが、沢山の献金を入れているのを見ておられました。

ところが一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚を入れたのです。

それは50円とか100 円の小さな金額でした。

それをイエスはこう言われたのです。

「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている者の中で、誰よりも沢山入れた。

皆は有り余る者の中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている全て、生活費を全部入れたからである」と。

二枚の銅貨は、一日の生活費にもならない、僅かな金額でした。

けれども、夫のいない、やもめにとっては一生懸命倹約をして、作ったお金でした。

だからこそイエスは、彼女の献金を褒めておられるのです。

銅貨二枚の献金は、彼女の信仰そのものであったのです。

しかし、やもめは何故、それ程の自己犠牲を払って、献金をささげたのでしょう。

それは神様を、彼女が深く愛していたからです。

皆さんは愛する人のためならば、喜んで自己犠牲をするでしょう。

愛する家族のために、夫は一生懸命働きます。

人から何を言われても、けなされても馬鹿にされても、辛い仕事でも、汗を流して働きます。

家族の為に働く、喜びがあるからです。

また妻は、夫や子供のために、身を粉にして尽くしています。

それは苦しみですが、また喜びでもあり、生きがいでもあるからです。

愛する者のために苦労する、喜びと誇りがあります。

神様に仕える事もそうではないでしょうか。

献金も、奉仕も、愛の働きも、自分をそれなりに犠牲にしなければ、実行出来ません。

けれども神様の愛を知る者として、少しでも自分を捧げる事、自己犠牲を払う事は、大きな喜びになるのです。

信仰生活は、全てがそうですが、嫌々ながらとか、強いられてとか、または恐怖心からするのではありません。

愛する神様のために、喜んでする生活なのです。

初めから最後まで、一貫しているのは、神を愛する喜びです。

喜びが、私たちの信仰生活を生き生きとし、高めてくれるのです。

神は私たちを愛し、恵み、守って下さいます。

神はその愛する一人子イエス・キリストを、私たちに与えて下さいました。

その十字架の死を通して、罪からの救いと永遠の命を与えて下さいました。

それは考えられない素晴らしい恵みであり、最高の愛です。

ですから私たちは、喜んで捧げ物をするのです。

つまり献金は、感謝であり、献金をするためにそれなりの計画と覚悟をして神に捧げるのです。

財布にお金があるからとか、お金があったから献金をするのではありません。

一週間、献金をする為に計画をして、心からの感謝として神様に捧げるのです。

その事で不思議な事に、聖書は献金の事を、「神の恵み」(Ⅱコリント8章)と言っています。

普通、献金は大切なお金を手放すのですから、損な事として考えがちです。

それで献金の時に席を外す人もいるくらいです。

でもそれは献金を間違った理解をしているからです。

献金は「神の恵み」だからです。

私たちにとって、まず神の恵みであるキリストの愛と命が、豊かに与えられている事実があるからです。

この神の恵みに生かされて、喜んでいるしるしとして、捧げ物をするのです。

沢山の献金をしたから、神様に自分が認められ、評価されるというのではありません。

既に神の恵みを与えられている、その感謝と喜びのしるしとして、ささげるのです。

聖書は「あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい」

(ロマ12・1 )と繰り返して語っています。

私たちも神の豊かな恵みへの応答として、自分自身を神様にささげたいと思います。

その一つのしるしが、献金なのです。

しかし献金は喜びであると同時に、痛みが伴うのは事実です。

けれども愛には、いつも犠牲が伴うのではないでしょうか。

自分を犠牲にしないような愛が、どこにあるでしょうか。

献金がそうです。喜びと同時に自己犠牲があるのです。

この貧しいやもめがそうでした。

生活費全部を捧げしまったのです。

それは自己犠牲をした上での献金でした。

生活が苦しくなるのを承知の上で、女は捧げたのです。

自己犠牲は献金だけではありません。

実は信仰生活の全てに、この自己犠牲があるのです。

その点では皆さんも、実は犠牲をしておられるのです。

例えば日曜の礼拝です。

礼拝を守るためには、何かを犠牲にしなければなりません。

学生なら、勉強をする時間を削らなければなりません。

社会人なら、仕事を休まなければなりません。

神を知らない人なら言うでしょう。

「何でそんな事をするのだ。教会に行けば交通費がいる。

献金をしなければならない。仕事が出来ない。損だらけではないか。」…そう思うでしょう。

しかし私たちは礼拝を守り、また献金もするのです。

何故なら、「神様の大きな愛に、礼拝を通して、捧げ物を通して少しでも応えたい」からです。

愛は喜びですが、同時に犠牲を伴います。

この二つを伴わない愛は、愛とは言えないかも知れません。

私たちは、偉い律法学者や多額の献金をした金持ちには、感動しません。

でも、銅貨二枚を捧げたやもめには、心を動かすのです。

貧しいやもめが喜んで、犠牲を払って献金を捧げたからです。

皆さんも、喜びと犠牲を伴って信仰生活をしておられるのです。

それがどんなに素晴らしいことかを、知っていただきたいのです。

こう言う人がいます。

家族や、健康上の事で、重荷を背負いながら、時間をかけて礼拝に来ておられます。

その方が、「礼拝に来る為に働いて、お金を貯めて献金をする。これが大きな喜びです」と言っておられるのを聞いて、私は感動しました。

それから先週、読売新聞にTさんのご長男のお嫁さん、ご存知の渡辺真理さんが親の介護に関して話されておられました。

その中で亡くなったTさんの話になり、真理さんがめぐみ幼稚園出身と言うことから、教会にお二人が通い、皆さんから暖かく受け入れられ、ご主人が晩年を幸せに過ごされた事が言われておりました。

人を暖かくもてなし、友となるには、皆さんがある点で自己犠牲をしなければ出来ません。

それをTさんは感じて、私たちの教会に喜んで通われ、ついには洗礼を受けて教会員になったのだと思います。

信仰生活には喜びと自己犠牲、この二つが大切なのです。

信仰生活が喜びであり、それなりの犠牲を伴ったものとして、受け止めて行こうではありませんか。

神への愛を見失って、どんなに一生懸命仕事をしても、豊かな生活をしても、楽しんでも、そこからは何の意味も出て来ません。

人生の土台が無いので、空しくなってしまうのです。

私たちは、先ず週の最初の日曜日に、礼拝を捧げる事によって神への愛を表わし、神の前で人生の軌道修正をして、神の守りと導きを祈るのです。

そうして、「たとえ自分が貧しくなっても、病気になっても、神は守り抜いて下さる。

いやそれ以上に、私の人生全体を神が守ってくださる」という確信に生きて行くのです。

今日の話は献金から礼拝へ、そして信仰生活へと広がりました。

やもめに関して言うなら、生活費全てを捧げたのですから、その後はどうなったのか、つい考えてしまうでしょう。

その事について聖書は何も語っていません。

でも、彼女のこれからの生活が、雨であろうと、晴れであろうと、全てを良しとして、神様に委ねた事は確かです。

またやもめはその後、いつも生活費全部を捧げた訳ではないでしょう。

しかし彼女の生活は、神様を愛する生活でした。

それは皆さんも同じです。

これ迄、日曜日という大切な時間を、皆さんは神様にささげています。

献金をささげ、奉仕もしておられます。

それは神に対する心からの感謝と信頼の表れです。

いずれも自分の大切な財産や時間、労働と神に捧げています。

そうして、「たとえ自分が貧しくなっても、病気になっても、神は守り抜いて下さる。

いやそれ以上に、私の人生全体を神が守ってくださる」という確信に生きて行くのです。

さて銅貨二枚という、人の目には無に等しいものが、イエスのまなざしを通して、限りなく、尊いものへと変えられました。

この事を通して、私たちの奉仕や愛のわざ、そして捧げ物が、どんなに小さなものであっても、神様を愛する、心からのものであるなら、主イエスがそれを素晴らしいものへと変えて下さり、神様は喜んで受けて下さるのを知ります。

私たちが、どういう評価を受けるか、その基準は人にあるのではありません。

神にのみ、あるのです。 これを間違えてはなりません。

自分への評価を、神にお委ねして、私たちは明るく、喜びの中を生きて行きましょう。

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