今週のメッセージ

マルコ6:7 ~13       2017、8、13

『12弟子の派遣』

この夏は、猛暑になったり、台風で集中豪雨になったり、また今日は暑さが戻ったりで、天候が定まりません。

どうかお互いに、健康に注意して過ごしましょう。

さてキリストを信じる者としての心構えは何か、また私たちに何が求められているのかを、本日の御言葉から聞いて行きましょう。

イエスは12弟子を呼び寄せ、二人ずつ組にして、村々へお遣わしになりました。

大勢の人に、福音を宣べ伝えるためであり、また、御自分がこの世を離れても、弟子たちがその御業を引き続ける為の、いわば実地訓練であったと言えます。

この時、イエスから呼ばれて、大切な使命を委ねられた12人は、感激をし、その責任の重大さに、身のひき締まる思いをしたでありましょう。

彼等は夫々が、人生において主イエスに出会い、神の愛を与えられ、死と滅びから救われて、新しい命を生きる者となりました。

その受けた救いと命、力を他の人々に伝える事、それが彼等の果たすべき目的でした。

そして遂にその時が、12人の弟子たちにやって来たのです。

皆さんは、「この12人の派遣は、牧師や伝道者などの、直接伝道に携わる人の事であって、御自分とは関係が無い。

他人事だ」と、考えておられないでしょうか。

けれどもこれは、私たち一人一人に語られている事なのです。

それは12人という数からも言えるのです。

12は完全数でして、時計の12の数とか、一年間の12ケ月というように、1 から12で、最初から最後まで全てを含むという意味を持っています。        ですから12人という時には、私たち信仰者も含まれています。

私たちは考えてみると、単純素朴なペトロであり、また純粋で若々しいヨハネであり、そして裏切り者のユダでもあるのです。

それからイエスは、この時12人を御元に呼び寄せてから、派遣しておられます。それは私たちも同じでして、このように日曜日に主は、礼拝という形で、私たちを呼び寄せておられ、救いと愛を豊かに与えて下さっておられます。

そして私たちは礼拝を終えて、教会の外へ向かいます。

つまりこの世へと、派遣されているのです。

主の救いと愛は、私たちが独り占めして良いのではありません。

他の必要とする人たちに、手渡す使命があるのです。

ですからこの12人に対して教えておられる事は、私たちに対しての教えでも

あるのです。

12人は、この時、イエスの代わりに、いわば主の全権大使として遣わされています。

それは彼等にとって、大きな誇りであり名誉でした。

私たちもこの12人と全く同じでして、現代におけるイエスの全権大使なのです。

私たちを通してイエスがいかに恵み深い、救い主であるかが、伝わって行のです。

聖書はⅡコリント2:13でこう語ります。

『神は私たちを通して、キリストを知る知識の香りを、至る所に放って下さるのである』と。

12人もそうですが、私たちのような、取るに足りない者が、キリストを伝える者として用いられ、キリストの香りを放つ者として、用いられている事を、感謝し、喜びたいと思います。

さてイエスは、『二人ずつ組にして遣わされ』ました。

なぜ一人で派遣されなかったのでしょうか。

一人の方が自由で気楽なのに。

しかし私たちはイエスを信じる者として、神の子として、他の人たちと助け合いながら生きるのです。

ですから自分一人で、事を運ぶのでなく、他の信仰者と補い合って行くのです。

自分一人の孤独な信仰者になってはなりません。

信仰の仲間と一緒になって、直面する問題を共有し、喜びや悲しみを共にして行くなら、躓いても、倒れても大丈夫です。

聖書には、「同労者」という言葉が、良く出てきます。

神の為に働く、同じ苦労をになっている働き手という意味で、特にパウロが好んで使っています。

例えば「私たちの同労者たち、マルコ、アリスタルコ、ルカ」と言っています。このように、信仰生活はある点で仲間作りなのです。

同情同感が出来る友が教会にいる。これが楽しい。

生きていて嬉しいのです。

さて12人は、汚れた霊に対する権能を与えられました。

汚れた霊とは、清い霊と反対であり、人が正しい道から、迷わせ、罪と汚れへと引き込む力を言います。

12人は、その汚れた霊を追い出し、人を神の子として正気に立ち返らせる力を与えられたのです。

汚れた霊の話しは昔の人の事ではありません。

現代人も汚れた霊の力を受けているからです。

皆さんの周りには、お金に支配されたり、欲望に振り回されている人がいるのではないでしょうか。

また憎しみや怒りで、いっぱいの人もいます。

それは汚れた霊に引きずられて、いるからではないでしょうか。

またクリスチャンであっても、欲望や憎悪に負けている人がいます。

礼拝を捧げながら、暗い思いで過ごしている人もいます。

ですから私たちは、まずイエス・キリストを仰ぎ見て、勝利の言葉を聞かねばなりません。

イエスは「汚れた霊よ、去れ。あなたは神の命を受けなさい」と言われます。

それは必ず、イエスの十字架の下で行われるのではないでしょうか。

ですから十字架のイエスを伝える事によって、人がイエスの所に行き、全面的な赦しを受けて、新たな歩みを始めるのです。

これが12節で言われている「悔い改め」の生活です。

悔い改めは、自分中心の生き方を変えて、神中心の生き方をする事です。

この事が行われるなら、この世界から争いや憎しみは無くなるでしょう。

私たちは、まず自分から、日々悔い改めて生きたいと願います。

それからイエスは12人に、いくつかの問題に対して、どうすべきかを注意しておられます。

『杖一本の他何も持たず、パンも、袋も、また帯びの中に金も持たず、ただ履

物は履くように、下着も二まい着てはならない』と命じておられます。

これは無謀で、現実離れした命令のように思えます。

何も持たないで、伝道が出来るのでしょうか。                イエスがこの事をお命じになった理由は、幾つかあるでしょう。

まず福音を宣べ伝えるのは、急務だという点です。

もしもこの時12人が、私たちの旅行のように、「あれが必要だ。これが足りない」などと、言ったらどうなるでしょう。

準備で時間がかかり、出発を遅らせ、伸び伸びになってしまうでしょう。

福音を待っている人々が、大勢いるのです。

聞くべき人がいるのに、伝える側で準備が整わないからと、出発を伸び伸びにしていたら、人を救う大切な時が、過ぎ去ってしまいます。

それで殆ど何も持たないで、旅立つ事をお命じになられたのです。

私たちも同じです。

福音を宣べ伝えなければならないのに、「まだ準備が出来ていないので、もう少し延ばして欲しい」と、言い続けたらどうでしょう。

せっかくの伝道の機会を逃してしまうという事にならないでしょうか。   ですからあれも足りない、これも足りないと遅らす理由をあげるのでなく、ともかく伝道に着手する事が大切なのです。

今のままの状態で、福音を直ぐに伝える事が出来るのを、イエスは述べておられるのです。

必要最小限のものしか、持つ事をお許しにならなかったもう一つの理由、それは伝道という特別な目的と使命を果たすのに、頼れるのはキリストの力であるという事です。

お金や物や知識で、人を救う事は出来ません。

勿論、信仰の知識や、伝道に役立つと思われるものは、あれば良いでしょう。

けれども無いなら、伝道出来ないという事はありません。

大切な事は、神の力であり、キリストの愛の力そのものなのです。

見てくれの偉そうな姿や、知恵のありそうな言葉ではありません。

大切なのは、その中身、神の愛と力なのです。

私たちのこの教会が建っている場所もそうです。

教会の前の道は、生活道路でなく、三渓園に行く人の通り道です。

ですから教会としては、地域の人にあまり知られていません。

しかし本日の御言葉は、伝道は場所とか、環境に左右されない事を教えています。

教会は何も無くて良いのです。

大切なのは、私たちがイエスの命と力を受けて、生き生きとしている事なのです。

教会で最も大切なのは、神様に生かされた皆さんです。

互いに信頼し、助け合い、神に仕えている人がいれば良いのです。

それから伝道にあたり、最小限の物で良しとする理由、それは神を信じ、神に仕える者の生活は、守られているという事です。

イエスはこう言いました。『まず神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば必要なものは、全て与えられる』と。

特に伝道に必要なものは与えられます。

この約束が事実である事を体験するために、12人は最小限の物しか持つ事を許されず、また泊まる家も、一つの家にとどまりなさいと、命じられているのです。

これは腰を落ち着けて、伝道しなさいという事ですが、福音を伝える者の生活を人が守るのは当然だ、と言われるのです。

福音は命の言葉であり、人を滅びから救う力があります。

いわば人生最大の宝物なのです。

その福音を伝えてくれる人に感謝の思いとして、援助を申し出るのは、当然ではないでしょうか。

私も牧師になった時、先輩牧師から言われました。

「牧師はどんなに貧しくても、伝道を熱心にするなら、食べられないような事はない。だから安心して伝道しなさい」と。

これは牧師だけではないと思います。

信仰者全てに当てはまる真理ではないでしょうか。

どんな状況においても、信仰者は生き生きと生活出来るからです。

それはイエスが共に居て下さり、生活を守って下さる。

そのイエスへの信頼に生かされているからです。

イエスによって、心が満たされ、平安と喜びに溢れているのは、何物にも代えがたいのです。

どうか何があっても、起こっても、私たちは守られている事を知りましょう。

最後にイエスは、語るべき事を語っても、相手が耳を傾けてくれない時どうすれば良いかを教えておられます。

その責任は問われない事が、「足のほこりを払い落とす」事で言われています。足のホコリは、その時、その場所のものとしてつきます。

ですから、結果が悪かったとしても、人を責めたりする必要はありません。

その時の事情が悪かったという事であり、人を裁いたり、責めたりする必要はないのです。

また他の時に、語れば良いからです。

このようにして、イエスから大きな使命を与えられた12人は、意気揚々として出かけました。

その結果多くの人が救われ、病人がいやされました。

私たちの伝道も同じです。

福音が語られる時に、人が救われ、重荷や苦しみをもっている人たちが励まされ、元気になるのです。

この福音を聞く喜びと、また伝える喜びを、経験して行きましょう。

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