今週のメッセージ

ヨハネによる福音書14:12~17     2020、9、20

「生きる力」

新型コロナの中で、新しい生活様式が模索されています。

それでは皆さんにとっての、新しい生活は、どういうものでしょうか。

私は、生活が自分の思うようにはならない現実を知りました。

今までは、好きなように生活が出来ました。

 

でも今は違います。

生活に規制がかかり、不自由になったのです。

電車に乗る事や、食事に行く事、外出する事が難しくなりました。

つまり何かをする時、熟慮して選び取らなければならないのです。

 

あれもこれもは、出来ません。

本当に必要な事をするのが、求められています。

そういう中で、日曜の礼拝をご一緒に守れるのは、嬉しい事です。

私たちは礼拝に出席出来ない方たちのために、祈りたいと思います。

これが私たちの使命だと思うからです。

 

さてイエス様は、「はっきり言っておく。私を信じるものは、私が行う業を行い、もっと大きな業を行うようになる」と言われました。

この「はっきり言っておく」は、アーメン、アーメンという言葉が繰り返されています。

 

つまり「これは、真実で確実である」と言われたのです。

今日は、それが何を意味しているかを、聞きましょう。

まず第一の言葉です。

「私を信じる者は、私が行う業を行い、もっと大きな業を行う事になる」です。

 

主イエスは水を葡萄酒に変え、僅かなパンと魚で数千人の空腹を満たしました。 さらに、目の見えない人を癒し、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死人を生き返らせています。

また一瞬にして、嵐を静めたり、湖の上を歩いたりされました。

そのような奇蹟を行う力が、信仰者に与えられると、言うのでしょうか。

 

確かに、イエス様が地上を去った後、弟子たちは病人を癒しています。

目の見えない人や歩けない人を癒しています。

でもその後には、弟子たちが水の上を歩いたとか、死んだ人を生き返らす事は記されていません。

 

また今日のクリスチャンも、ルルドの泉とか祈りによって、病気が癒された話は時々ありますが、奇跡を起こす話はあまり聞きません。

すると「大きな業を行う」とは何を意味しているのでしょうか。

福音の前進に関してなのです。

 

イエス様が地上で、人を導いた数は、限られていました。

ところがイエス様が去って、50日目のペンテコステの祭りの時です。

弟子たちは立ち上がり、キリストの福音を語ったのです。

すると、3千人もの人が心を開いて、信者になりました。

 

その後、彼らは伝道のために、世界の町々を訪ねています。

ギリシャやローマ、コリント、小アジアやエジプト、そしてインドまで行って大勢の人に福音を説きました。

やがてこの日本にも、キリスト教は伝わり、教会が誕生しました。

つまりイエス様の言われる「もっと大きな業を行う」とは、人々を神の国へと導く事だったのです。

 

弟子たちは、知恵も力もない、弱く臆病な人たちでした。

その様な人たちが、キリストの福音を述べ伝えますとどうでしょう。

多くの人が悔い改め、信じる者となっているのです。

まさに、主の言葉が事実になったのです。

 

皆さんは今、イエス様が目に見える形で居て下さったら、どんなに強められ、大きな働きが出来るだろうと、考えるかも知れません。

でも、そうではありません。

イエス様は、目には見えませんが、私たちを励まし、導いて、大きな働きをさせて下さるのです。

 

私たちに特別な力が、あってもなくても、良いのです。

主イエスが私たちを導き、また人々の心を導いて、救いが伝わるからです。

ですから私たちは、福音宣教を祈り求めたいのです。

時が良くても悪くても、福音を語り伝える人として、上よりの力を求めましょう。

 

そうするなら、主イエスは語る者、聞く者を導かれ、豊かな実りをもたらして下さるからです。

取るに足りない私たちが用いられ、大きな実りを収穫出来る約束を信じて、歩んで行きましょう。

 

さて第二の約束です。

13節の「私の名によって願う事は何でもかなえてあげよう」という言葉です。

イエス様は、私たちの訴えや求め、願いを聞いてくださり、応えてくださると言われるのです。

 

これは願いが、全て叶うと言う事でしょうか。

お金や物や健康が、祈り求めるなら、与えられるという事なのでしょうか。

私は懲りないで、宝くじを買っては祈ります。「神様当たるようにして下さい」と。 でも当たった事がありません。

 

と言う事は、「当たらなくても良いのだ」、という事でしょう。

しかし本当に必要なら、必要は満たされる事を私は経験してきました。

生きるに必要な事は、必ず満たされるからです。

それでは、本当に必要なものとは何でしょう。

 

私たちの命、魂を豊かにし、養い、守る事でしょう。

祈りの最後に、「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と皆さんは祈ります。

この「イエスの御名によって」は、単なる形式ではありません。

主イエスが私たちの祈りの内容を吟味して、必要な祈りを、神様に執り成して下さるのです。

 

私は以前、クリスチャンの実業家からこう言われました。

「本当に必要な事ならば、本気になって祈るのだ。

何回も、何回も、祈る毎に祈るなら、神様は聞いて下さる」と。

その人は、福祉としての保育園を始めなければと考え、祈り求めたのです。

 

やがて東京の中でも、大きな保育園を幾つも立ち上げました。

人にとって、最も必要なものは、命に関わる事です。

それはキリストの福音を人に伝えて、人が幸せになる事ではないでしょうか。

私たちの共通の祈りは、地域の人に福音を伝える事です。

その祈りを熱心にするなら、神様は聞いて下さり、実現へと向かうのです。

 

勿論、細々とした祈り求めも聞かれます。

主イエスは、「それらは添えて与えられる」と言われ、神様のご配慮に委ねなさいと言われます。

ですから、安心できるのです。

 

第三の約束があります。16節の言葉です。

「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と。

 

イエス様が十字架で死ぬ事は、弟子たちの指導者であり保護者を失う事でした。

ちょうど愛する親が死んで、子供たちが取り残されてしまうのと同じです。

弟子たちは落胆して、親を失ったように悲しみました。

でもイエス様は、そのような事はなくなると言われます。

 

「主イエスが地上から去るならば、居られた時以上に、彼らはイエス様を身近に感じ、親しく教えを受ける事が出来る」と言われたのです。

それが第三の素晴らしい約束です。

誰もが、イエス様が十字架にかかって死んでしまったなら、キリスト教は消滅すると考えていました。

 

けれども実際は違いました。

イエス様が、彼らの只中におられ、励まし、導かれたからです。

それで弟子たちは、喜びに満たされ、熱心に神の国を伝える者として生きました。

確かにイエス様が十字架にかかった時には、恐怖で、逃げ隠れました。

 

しかし聖霊の満たしによって、死や迫害を恐れる事なく、勇敢にキリストを伝えるようになったのです。

 

聖霊は、パラクレートスと言いまして、パラは横に、クレートスは呼ぶと言う言葉から出来ています。

つまり神からの命、力である聖霊が、信仰者と共にいて下さるのです。

励まし、導いてくれるので、福音宣教に邁進出来たのです。

 

その事を、パウロはこう言っています。

「キリストの福音のためなら私は何でもします」と。

実際彼は、海では難船して漂い、陸路では嵐や強盗に会い、病気になったり、遂には兵士たちに囚われて鞭打たれ、牢に入れられたりしました。

 

しかし、聖霊の励ましを受けて、苦しみや問題を乗り越えて、伝道に励んだのです。

これはパウロが、特別な強い信仰を持っていたから出来たのでしょうか。

私たちのような弱い信仰者、凡人には不可能な事なのでしょうか。

 

いいえ、違います。

私たちにも、聖霊の励ましと導きが働くからです。

皆さんも、そのような導きを受けた事があるのではないでしょうか。

愛する者のために、自分を犠牲にして助け、神の御心に従った事があるのではないでしょうか。

 

それが出来た理由は、神の聖霊が傍にいて、励まし、支えてくれたからです。

聖霊はペンテコステの日以来、信じる者に与えられている神からの命と力です。

聖霊は私たちをどこまでも守り、味方になってくれる弁護者です。

この聖霊が傍にいるので、私たちは神の愛を感じるのです。

 

さらにイエス様はこの聖霊を真理の霊と呼んでおられます。

信じる者だけが持っている真理を認識する力です。

これは何を人生の目的として生き、何に向かって進むべきなのかを、分からせてくれます。

 

この真理の霊に導かれて、私たちは確かな歩みが出来るのです。

さて以上、三つの約束が弟子たちに、私たちに与えられている事を聞きました。

一つは大きな業をする約束。

二つ目は祈りが聞かれる約束。

三つ目は聖霊が与えられるという約束です。

でも考えてみますと、この三つの約束は実は一つです。

つまり聖霊を受けるならば、私たちは大きな働きをし、祈りが聞かれ、真理に導かれるのです。

 

それではどのようにして、聖霊を受ける事が出来るのでしょう。

イエスは15節でこう述べておられます。

「あなたがたは私を愛しているならば、わたしの掟を守る」と。

聖霊に至る唯一の道、それは主イエスを愛する事なのです。

 

イエス様を愛する事は、父なる神を愛する事であり、その愛は隣人に広がります。

それが、神の掟を守る事なのです。

人として当然の、神様を愛し、人を自分のように愛する事だからです。

 

しかしある人は、私には神を愛する事が難しいし、人を愛する事も出来ないと尻込むかも知れません。

安心してください。

イエス様はその事充分ご存知なのです。

 

だからこそ、十字架があるのではないでしょうか。

十字架に心を向けて、祈り求めるならば、私たちに愛する力と方法を示して下さいます。

ですからこう祈り求めれば良いのです。

「主イエスよ。私はあなたの戒めを守りたいのです。

どうか愛する力を、力を与えて下さい」と。

 

この祈りによって、私たちは神を愛し、隣人を愛する者へと変えられて行くのです。

皆さんは、そのような祈り求めを、して来たのではないでしょうか。

だからこそ、この礼拝に集まって、心から神を賛美し、愛する者のための執り成しの祈りを捧げているのです。

 

《それでは祈りましょう》

まず心の内にある願い求めを祈って下さい。それからご一緒に祈りましょう。

私たちの神様。

今日も日曜の礼拝を守れた事を感謝します。

うかそれぞれの心の内にある願い求めを、聞いて下さり、ふさわしい答えを備えて下さいますようにお願いします。

 

仕事も始まり、学校も始まりました。その中で、新しい生活を求めて歩もうとしています。

しかしどうかコロナウィルスにかからないように守って下さい。

私たちの愛する家族を守り支えて下さい。

 

また教会の兄弟姉妹を守って下さい。

特に一人で生活している方、高齢の方、病気や怪我を抱えておられる方を守って

下さい。

若者たちの夢が実現するように、その道を備えて下さい。

幼稚園に関わる方たちを守り、園児やその家族たちを守って下さい。

 

どうか新型コロナへの良い治療と解決の道を備えて下さいますようお願いします。

また医療関係者を守って下さい。

人々が助け合い、補いあって平和な社会が作られますように導いて下さい。

 

時を同じくして、世界中で礼拝が捧げられています。

神様の導きと祝福がありまして、希望を持って日々を過ごせますようにお願いします。

どうか礼拝に出席できない方たちを守って下さい。

この祈りを主イエスの御名によってお捧げいたします。  アーメン。

 

 

 

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