今週のメッセージ

ヨハネによる福音書12:34~43      2020、7、12

      「十字架の赦し」

 今日の礼拝堂の説教台を、ご覧になって驚いたと思います。

店のカウンターのように、透明ビニールを貼った衝立てがあるからです。

 これはマスクをしてでは、お話がしにくいので、それなら透明の衝立てを作ってしまおうと、ホームセンターを歩いて材料を求めて作ったのです。

 

 ところがアクリルの透明板が売り切れていました。

それでテーブルククロスの透明ビニールを代わりに使いました。

 反射をして、見にくいかも知れませんが、我慢をしていただければと思います。

新型コロナとの戦いは、長期戦になるかも知れません。

 どうか忍耐と工夫をして対処して行きましょう。 

 

 さて、今日の聖書ですが、イエス様はご自分が、十字架で死ぬ事を明らかにされました。

 すると人々は「救い主は永遠に我々と居て、国の繁栄を導くのに、なぜ死ぬのか。 あなたが自分を「救い主」だと言うがありえない」と言い返したのです。

 

しかしイエス様は彼らの、否定的な質問には答えませんでした。

どんなに丁寧に答えたとしても、受け入れない心をご存知だったからです。

イエス様に心を開かないで、頭から否定する人には、何を言っても無駄であるのをご存知だからです。

 

この事に関して、ベートベンのこんな話があります。

演奏家たちがベートベンの曲を演奏する時、技術的な間違いには寛容でした。

例えばピアニストが単純なミスをしても怒る事は、殆どなかったのです。

ところが曲を、ベートベンの意図したものとは、違った解釈で演奏する人には、激しい怒りをぶつけたと言われています。

 

この逸話が教える事は、全て根本を正しく理解する事が大切だという事です。

小さな過ちは許されます。

 しかし根本的な間違いをしてはならないのです。

イエス様が、私たちの救い主であり、私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さる方である事を、認識しうる限り、間違いや失敗をしても大丈夫なのです。

しかし群集がイエス様の言葉に躓くのは、初めからイエス様を否定し、自分たちこそが正しいと思いこんでいたからです。

そのような人に、懇切丁寧にいくら説明をしても無駄です。

それよりも彼らの歪んだ心を正す方が、大切なのです。

 

ですからイエス様は、彼らの質問には答えず、彼らの心のあり方、人生そのものを取り上げて言いました。

「光の中を歩きなさい」。

光とは神様であり、イエス様ご自身です。

 

「私は世の光である。私に従って来る者は、闇の中を歩く事がなく、命の光を持つであろう」と、イエスは繰り返して教えておられます。

闇とはこの世界、私たち人間のいる世界を言います。

どうかクリスマスの夜の出来事を告げる聖書の言葉を思い出してください。

 

「全ての人を照らすまことの光があって世に来た。彼は世にいた。

そして世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らなかった」(1:9、10)。

 この世は欲望や罪、憎しみ悪意、争い、そして病気や死によって暗くなっています。

 

それは光であるイエス・キリストを受け入れないからだと、聖書は告げています。 本日の個所もそうです。

イエス様は「光のあるうちに歩きなさい。そして光の子になりなさい」と教えておられます。

 

「光のあるうちに」というのは、イエスがおられる間にという意味です。

この時のユダヤ人にとっては、イエス様が地上におられる間に、光を受けて生きる事です。

 

現在の私たちにとっての「光のあるうちに」とは、「今、この時をイエスの光の中で生きる事」と言えるでしょう。

今、この時の決断が大切なのです。

イエスの光を受けて今、歩く事をしないなら、私たちは暗闇の中を、さ迷うでしょう。

私たちは今、どちらの中にいるのでしょうか。

私たちは人間関係の不和とか、経済的な問題、病気や体力の衰え、死の問題にいつも追われています。

今、上手く行っていると、喜んでいましても、たちまち不幸や問題が押し迫って、行き詰まってしまいます。

 

まさに「一寸先は闇」の通りだと思います。

無力で、孤独な思いに襲われて、暗闇の中に居続けていないでしょうか。

そんな私たちにイエス様は、「光のあるうちに、光の子となるために、光である私を信じなさい」と言われるのです。

 

「光のあるうちに」と言われます。

つまりこの光が、遠くへ去ってしまう時が必ず来る、という事なのです。

イエス様の救いは、いつも目の前にあるとは限りません。

勿論、その輝きは永遠に変わらないでしょう。

 

しかし私たちの方で光を見失い、光から離れてしまうという事が起こります。明日、事故や病気で突然この世を去るという事が起こるかも知れません。

誰もその事を否定できません。

いつかイエス様を信じようと、その時を伸ばし伸ばしにして、そのまま人生を終えてしまう人もいるのです。

 

救いに至る門は、常に開かれているとは限りません。

今は開いているけれども、ある時から閉ざされてしまうかも知れません。

ですから今というこの時を大切にして、イエス様を信じて行くのです。

私たちの人生は、いつしか過ぎ去ります。

 

今、光を受けようとしない人は、きっと人生を無駄にしてしまうでしょう。

どうか光のあるうちに、光の子としての輝きを放つ者として歩んで行きましょう。

 

 さてイエス様は36節にあるように、「光であるご自分がいる間に、信じなさい」と教えてから、立ち去って身を隠されてしまいました。

 これはまさに、光であるイエス・キリストが、彼らから離れた事の現われです。

離れて行かねばならない、その御心は悲しみであり、深い落胆だったでしょう。

 次の節では、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と言われています。

どんなに言葉を尽くし、教えを示しましても、そして奇蹟を行って、イエスが神からの救い主である事を示しても、彼らはイエス様を受け入れませんでした。

 

皆さんはこう考えた事があるかも知れません。

「今、現在、イエス様の御姿を、直接人々が見たなら、またその教えを聞いたなら、そしてそのなさった素晴らしい業を目撃したなら、信仰者が多く生まれるのではないだろうか」と。

でも、そうではありません。

どんなにイエス様を知り、体験しても、それが信仰に至るかどうかは別なのです。

 

神様からの働きかけ、聖霊の導きが与えられて、心が開かれない限り、信じる事はないからです。

その事を預言者イザヤの言葉を引用して聖書は説明しています。

それは不思議な説明です。

 

人々の不信仰の理由は、神様だと言うのです。

「神が彼らの目を見えなくし、心の耳をふさぎ、彼らの心をかたくなにされたのである。

神が背後で、そうしておられる」と言うのです。

これはどういう事なのでしょうか。

 

これは神のご計画を語っている言葉です。

彼らが信じないのは、彼ら自身の意志によります。

どんなに御言葉を聞き、愛を注がれ、真理を明らかにされても、心を開こうとしないなら、神はその人を不幸なままにするのです。

 

そして、それが神の御心だと言うのです。

頑なに、拒絶する心にしがみつくなら、神は彼らのなすがままにされます。

そのような不幸な状態は、その人自身が招いているのですが、実は神様がそうされておられるのです。

 

この時、イエス様を受け入れようとしないのは、神がそうしておられるのだとすると、一体、何うなるのでしょう?

 

その事が神の御心ならば、やがて神が彼らの心を開かれる事もあるのではないでしょうか。

何故なら神は、必ず人を救う約束をしておられるからです。

と言う事は、人の不信仰があっても、神はその不信仰を通して、偉大な事をされる事を告げているのではないでしょうか。

 

ですからこれは人を呪う言葉ではありません。

反対に、神に全てをお委ねする信頼の言葉なのです。

それが次の42節で言われています。

「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。」と言う言葉です。

 

その中にはかつて、夜の訪問者のニコデモもいれば、アリマタヤのヨセフもいました。

彼らは「会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に信仰を言い表そうとはしませんでした」。

 

「彼らは神からの誉れよりも、人からの誉れの方を好んだ」のです。

彼らは人を恐れていました。

 けれどもこのような人が、やがて神からの力、聖霊の促しを受けて変わって行くのです。

 

イエス様が十字架につけられて死んだ時、弟子たちは皆、逃げ去って、誰も十字架からイエスの体を降ろして葬ろうとはしませんでした。

ところがこの時、この二人の議員が立ち上がり、人々の軽蔑や嘲笑、仲間外れを恐れずに、イエス様の死体を引き取り、丁重に墓に葬ったのです。

 

 それは誰も真似出来ない、勇気ある行動でした。

人からの誉れではなく、まさに神からの誉れを選び取ったのです。

不信仰で弱い信仰者が、神の導きを受けて強くなった実例です。

 

ある人がこう言っています。

「私は聖書を優れた文学として親しんでいたのだが、その程度の親しみ方では、結局、山を上らないで、眺めているに過ぎないと思い知らされた。

 

しかしイエス様と共に歩み始める事によって、初めて信仰の深い意味や喜びが読み取れるようになった。

 すなわち聖書を読み、キリストの言葉と行いに触れて行くうちに、信仰が生まれ、さらにもう一歩進んで行動を起こして行くようになった。

 

先ず一歩を踏み出す事が大切なのを知ったのです。

すると聖書の読み方がすっかり変わってしまう経験をしたのです。

もちろん、奥深い書物ですから、理解が一時に進んだとは言えないでしょう。でも読んでいて、渇く人が水を与えられたように心に御言葉が染み渡りました。

聖書を読む事が楽しみなのを知ったのです。

 

このようにイエス様が「光の子となるために、私に従いなさい」と言う時、わずかな一歩を踏み出すならば、大きな喜びが与えられます。

 これは信仰の歩みを始める人に共通する思い出はないでしょうか。

二人の議員も、そして私たちもそうなのです。

 

光を少しずつ受けて、やがて信仰が強められ、喜びと確信を与えられるのです。

私たちは心を開いて、今日も一歩を踏み出したいと思います。

神はその事を喜ばれて、更に大きな信仰の世界へと私たちを導いて下さるでしょう。 

 

《それでは祈りましょう》

まず心の内にある祈り求めをされて、それからご一緒に祈りましょう。

私たちの神様。今日もそれぞれの場所で、礼拝を守れた事を感謝します。

どうか一人一人を守り支えてください。

 

私たちは何時の間にか闇の中に居続けるような生活をしています。

特に新型コロナの為に、閉鎖的になり、人との接触も断たれがちです。

どうかそのような中で、光であるイエス様を見上げ、心が明るくなり、光の中を歩めるように導いて下さい。

 

またウィルスにかからないように守って下さい。

私たちの愛する家族を守り、支えて下さい。

 

教会の兄弟姉妹を守って下さい。

特に一人で生活している方、高齢の方、病気や怪我を抱えておられる方を守って

下さい。

 また若者たちが刹那的になるのでなく、大きな希望を持って生活できるよう導いて下さい。

彼らの歩む道を備え、希望に生きるようお願いします。

幼稚園の子どもたち、そのご家族、幼稚園に携わる職員たちを守って下さい。

 

どうか愛の神様が、新型コロナへの良い治療と解決の道を備えて下さいますようお願いします。

コロナで苦しんでいる人々を支え、お互いに助け合って平和な社会が作られますように導いて下さい。

 

今、全世界で多くの人々が礼拝を捧げています。

あなたの導きと祝福がありまして、希望を持って日々を過ごせますように。

また散らばっている教会の兄弟姉妹を守って下さい。

この祈りを主イエスの御名によってお献げいたします。  アーメン。 

 

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