今週のメッセージ

ヨハネによる福音書21:15〜17      2021、5、30

「イエス様の期待」      説教 増田志郎牧師

 復活のキリストはガリラヤ湖畔で、弟子たちと食事をされました。

それは弟子たちにとって忘れがたい、貴重な経験となったのでうす。

 食事を終えると、イエス様は「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と尋ねました。

 

 これはペトロにとって、辛い事でした。

最後の晩餐の時、ペトロは「他の者たちがあなたを見捨てようとも、私だけは、あなたを見捨てません」と、言い切ったからです。

しかしイエス様が捕らえられると、他の弟子たちと一緒に、逃げ去ったのです。

ですから胸を張って、「他の者たち以上に、イエス様を愛する」なんて言えません。

 

ペトロの失敗の原因は、彼の弱さから来ていました。

それならば、「ペトロよ、これからは心を入れ変えて、私を絶対に裏切らないか」と、尋ねれば良いのです。

ところが、そうされませんでした。 

「この人たち以上に、私を愛しているか」と言われたのです。

 

私たちは、自分の心が強くなれば、裏切る事などない、強い信仰者になると思っています。 

ペトロがそうでした。

彼は勇気と決断力があると思い込んでいました。 その彼が、裏切ったのです。 

 

ペトロの裏切りの原因が、どこにあったのでしょうか。

その答えが、イエス様の問いかけによって、明らかにされて行きます。

最初に、「あなたはこの私を、この人たち以上に愛しているか」と。

聞きました。

 

ペトロは、小さくなって、「私が愛しているのは、あなたがご存知です」と答えるしかありませんでした。

イエス様を愛していますが、もはや他の人と、競い合えない事を、知りました。

すると再び、イエス様は言いました。

今度は、「この人たち以上に」と言う言葉はなく、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と言われました。

 ペトロは同じ答えを言いました。「私が愛しているのは、あなたがご存知です」。

それが2回続きました。

 

この愛すると言う言葉ですが、日本語の訳では、その微妙さが伝わりません。

聖書の原文であるギリシャ語では、イエス様は二度目まで、アガパオーという、神を愛する時に使う言葉を使っています。

ところがペトロは、フイレオーという人間的な愛情の、友情に近い言葉で、最後まで、使っています。

 

 三度目になってイエス様は、言葉を変えて、ペトロのフィレオーという言葉を使って、人間的な友情の愛でよいから、私を愛するかと言っておられるのです。

 勿論、イエス様はギリシャ語でなく、アラム語という庶民の言葉で話しておら

れました。

 

アラム語には日本語と同じで、愛するという言葉は、一つしかありません。

言葉の区別は、この福音書を書いたヨハネが、ギリシャ人、ローマ人に分かるように、愛すると言う言葉を選んでいるのです。

 つまりヨハネによるならば、イエス様はペトロに、神を愛する純粋な愛で、私を愛するかと言われたのですが、ペトロは、「私には、立派な愛は、もうありません。」

 

「私が出来るのは、欠点のある友情のような、人間的な愛しかありません。

でも心をこめて愛します」と答え、イエス様も同意されたという事なのです。

しかし何故イエス様は、ペトロに「私を愛しているか」と言われたのでしょう。

それは、十字架は、ペトロの為の十字架でもあったからです。

 

 十字架によって罪を赦され者は、イエス様を深く愛そうとします。

ですからペトロは「私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えたのです。

私たちもそうです。

主は私たちのために命を捨てて、十字架で死んで下さいました。 

その事を知れば知るほど、イエス様を愛する思いが、強くなるのです。

ですから、「主よ。私があなたを愛しているのは、あなたがご存知です」と答えたのです。

 ペトロの愛は、立派な、純粋な愛ではないかも知れません。

欠けのある、弱い愛かも知れません。

 イエス様は、「その愛で良いから、愛しなさい。事あるごとに、私を愛しなさい」と言われたのです。

 

 ユダヤ人の話に、こういうのがあります。

牧師と石鹸屋が歩いていましいた。石鹸屋が言いました。

「信仰って役に立つのですか。教会が出来て、イエス様の教えが伝えられてから、年月が経ちますが、世の中の悩みや不安は消えないではありませんか。

 

信仰が本物なら、何で世の中には、こんなに問題があるのでしょう。」

牧師は何も言いませんでした。

 歩き続けて行くうちに、子どもが泥まみれで遊んでいるのを見つけました。

牧師が言いました。

 

「あの子が分かりますね。あなたは石鹸が綺麗にしてくれる」と言うけれど、

石鹸は家にあった筈です。

 でもあの子は泥まみれです。石鹸があっても、あの子は汚れています」。

石鹸屋が抗議しました。

 

 「先生、石鹸は使わなければ、ダメなんですよ」と。

「その通り。信仰も使わなければ、力を発揮しません。

毎日、使う事が大切なのです。生活の中で、イエス様を信じ、愛する事が大切なのです」と、牧師は教えたのです。

 

 私たちは、イエス様を愛する愛は、崇高で清い愛でなければと考えがちです。

アガペーという清い、純粋な思いで愛さなければならないと、考えていないでしょうか。

大切にするあまり、心の奥深くに、しまっておいて、日常的に愛する事を忘れてはいないでしょうか。

しかしイエス様は、私たちの欠点のある愛で、私を愛しなさいと言われます。

大切に、しまって置くのでなく、毎日、愛しなさいと言われます。

この愛するという言葉は、日常的な言葉に言い換えると、どう言えるでしょう。

多分「大好き」という言葉ではないでしょうか。

 

「好きです」と云う言葉は、子供でも友人の間でも、恋人でも、夫婦でも言います。

それはあまりにも、人間的かも知れません。

しかしイエス様は、そのような愛し方で良いと言われ、イエスご自身も三回目には、「あなたは私を好きか」と言っておられるのです。

 

「私はイエス様が、大好きです」と言い換えたらどうでしょう。

これなら誰にでも、出来るのではないでしょうか。

イエス様は、私たちの不完全な愛であっても、受け入れて下さいます。

どうか「自分の愛は弱く、不完全である」と嘆いて、イエス様を愛することを忘れないようにしましょう。

「不完全な愛でよいから、私を愛しなさい」とイエス様は言われます。

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 さてイエス様はペトロに、「私の小羊を飼いなさい。世話をしなさい」と言われました。

小羊と言いますのは、イエス様を信じ、従う人たちを言います。

けれども何故、イエス様を愛する事が、信じる人たちの世話になるのでしょう。

 

イエス様はかつて、ご自分を、「私は良い羊飼いである」と言われました。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

私はその羊を導かなければならない。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と。 ヨハネ10章。

 

 イエス様は神を見失い、羊のように迷っている人たちを見出し、ご自分の民とするために来られたのです。

 その重要な働き受け継ぐ事、それが神の民を、養い世話する事であり、その使命がこの時、ペトロに委ねられようとしているのです。

信仰者は、「イエス様の羊」と言われています。

ですから、私たち教会に結ばれた者は、イエス・キリストの羊です。

それから羊は、自力では生きて行けません。

そのような一人一人のために、ペトロが必要な世話をし、食べ物を与えなさいと言われるのです。

 

 食べ物とは、命の糧である御言葉を、語り合い、励まされて行く事です。

この務めはペトロが死に、他の弟子たちが死んで行きますと、信仰を持っている者たちに委ねられて来ました。

 私たちにとっては、牧師であり、長老であり、日曜学校の教師であり、さらに広げるなら、既に信仰を与えられた人々を意味します。

 

 信仰者全てが、ペトロの使命を担っています。

イエス様を愛するなら、イエス様の言葉によって、人を守り、導くのです。

教会の交わりが、イエス様を抜きにした、人間的な繋がりだけで終わるなら、どうなるのでしょう。 有害な交わりになってしまいます。

私たちは交わりを大切にしたいと思います。

イエス様の愛を語り合う、命の交わりを作り上げて行きましょう。

 

さてペトロは17節にありますように、イエス様が三回も「私を愛しているか」と言われたので悲しくなりました。

三回も繰り返されたのですから、悲しくなるのは当然です。

しかし三度イエスが問われた事は、ペトロが鶏の鳴く前に、三度裏切った事に対応しています。

 

イエス様はペトロが悲しむ事をご存知の上で、いわば意図的に三度質問をされておられるのです。

三回の問いかけによって、ペトロは自分の過ちを思い出しました。 

しかし同時に十字架による赦しを受けて、新しい歩みを始めたのです。 

 

何回もお話ししますが、この後、ペトロが人々の前で説教をしていると、しばしばペトロに反対する者たちがいました。

彼らは、コケコッコーと雄鶏の真似をして、イエス様を裏切ったペトロが、説教をするのは許されないと非難したのです。

 しかしペトロは、ひるみませんでした。

「確かに私はイエスを裏切った人間だ。最低の弟子である。

 

だが主イエスの十字架は、そのような私のためにもあるのだ。

復活のイエス様は、私の罪を赦し、もはや問わない事を明らかにして下さった。だから、私はイエス様を愛し、語るのだ」と。

私たちも同じです。

 

イエス様は私たちの弱さや罪を背負って、十字架で死んで下さいました。

復活のイエスは、私たちの過去の罪、現在の罪、将来の罪全てを赦して下さいます。

ですから、新しい人間として、神の子として生きて行けるのです。

私たちは、その喜びを語り合いましょう。 

 

《それでは祈ります。まず心の内の思いを祈り、それからご一緒に祈りましょう。》

私たちの神様、今日も礼拝を守れました事を感謝します。

どうか私たちの罪や過ちを赦して下さい。

身も心も綺麗になって、あなたに使える事が出来ますように。

 

また私たちの願い求めを聞いて下さい。そして歩むべき道を示して下さい。

私たちは、生活上の色々な問題を抱えております。

でも今も生けるイエス様が、共にいて下さり、見守って下さるので感謝します。

どうか病気や怪我を抱えて、苦しんでいる友を支え、守って下さい。

 

私たちの愛する家族を守って下さい。幼子やその家族を守って下さい。 

一人で生活しておられる方、高齢の方を守って下さい。

付属の幼稚園の子どもや職員を守って下さい。

礼拝後に予定されている教会総会を導き、守って下さい

 

今日、礼拝に出席出来ない友を守って下さい。

時を同じくして礼拝を捧げている全世界の教会に神様の祝福がありますように。

この祈りを、イエス様のお名前によって、お捧げします。 アーメン

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