今週のメッセージ
ヨハネによる福音書18:15~27 2021、2、14
「裏切ったペトロ」
今日の聖書には、イエス様が捕らえられて、大祭司カヤファの屋敷に連れられて行った事が記されています。
その屋敷はエルサレムの東にあり、現在「鶏が鳴いたペトロの教会」があります。
ペトロが三度イエス様を否定した時、鶏の鳴き声を聞いた場所に教会があるのです。
カヤファの屋敷跡に、西暦400年頃、最初の教会が建てられました。
それから何回も戦乱に遭い、その度に教会は再建され、破壊されました。
現在の教会は100年程前に、再建された大きな教会です。
やがて地下牢が発見されまして、大祭司の屋敷跡である事が証明されたのです。
地下牢はこの礼拝堂の半分くらいの洞穴です。
イエス様は、左右の手をロープで縛られて、壁に引っ張られて、鞭打ちされたと言われています。
この洞穴に入ったなら、誰もがイエス様の苦しみを思わずにはおれません。
真っ暗な洞穴に、縛られ、鞭打ちを受けた姿を想像しただけで、苦しくなります。
イエス様は大祭司カヤファの尋問を受けなければなりませんでした。
15節にシモン・ペトロともう一人の弟子がついて行った事が書かれています。
その弟子は、大祭司の知り合いでした。
この弟子が誰であるかは、皆さんお分かりでしょう。この福音書の著者ヨハネです。
彼はイエス様に、自分が一番愛されていると、思っていた人でした。
イエス様が十字架で息を引き取る時、母マリヤの老後を頼んだ青年です。
彼はその後、パトモス島に流され、その後エフェソで伝道し、120歳まで生きと言われています。
彼の生涯は、常にイエス様と共にあり、人をイエス様に導く大きな働きをしました。
そのヨハネが、ペトロを導いて、大祭司の屋敷に入り込んだのです。
大祭司カヤファは、イエス様を尋問して、有罪にする事を楽しみにしていました。
彼は「弟子の数や、説いた教えはどうなのか」を聞きました。
それはイエス様に死刑宣告をするための、法的な手順だったからです。
イエス様は答えました。「私はいつも、ユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で、公然と教えた。だから聞いた人々に尋ねるがよい。
その人々が私の話した事を知っている」と。
イエス様は、地位や教育の無い者にも、また罪人や収税人、遊女などに救いをお与えになりました。
それはカヤファの熟知している事でした。 でもカヤファは心を開きませんでした。
神に仕える身でありながら、自分が神となり、欲望を満たす事しか、関心がなかったからです。
でもこれが、多くの人の姿かも知れません。
皆さんは違います。
皆さんは、心の扉を開いて、イエス様の愛と救いを受けておられるからです。
しかし私たちもかつては、カヤファと同じだったのではないでしょうか。
自分が神となって、生きていました。
それが心の扉を、開いた事により、神からの聖霊の導きにより、私たちは変えられ、
イエス様を信じる者へとなったのです。
さて、イエス様の毅然とした態度に、「それが大祭司様に対しての言葉か」と一人の下役がイエス様を平手で打ちました。
主は言いました。「もし何か悪いことを私が言ったなら、それを証明しなさい。
正しいことを言ったのならなぜ私を打つのか」と。
イエス様は毅然と対応されました。
この事から、人からの憎しみや非難を受けたとしましても、イエス様の模範に従えば良い事を教えられます。
私たちも一時的な感情で相手を恐れたり、憎むのでなく、真実を貫けば良いのです。 神様の守りを信じ、神の愛と恵みに委ねれば良いのです。
さて弟子たちは、イエス様が兵士たちに捕われますと、逃げ去ってしまいました。
しかし二人の弟子だけが、イエス様の後をつけて、大祭司の屋敷に入りました。
初春のエルサレムは、夜になると底冷えがするくらい冷えます。
それで兵士たちは、焚き火をして暖を取っていました。
ペトロは、彼らに近づき、見知らぬ顔をして火に当たっていました。
すると、門番の女中が、焚き火の光に照らされた、ペトロの顔を見て言いました。
「あなたも、あの人の弟子の一人だった」と。
ペトロは慌てて、「違う」と否定したのです。
彼は、「イエス様が死ななければならないなら、私も一緒に死にます」と約束した程の覚悟をしていました。
実際、数時間前には、イエス様を捕らえに来た役人に立ち向かい、剣を抜いて切りつけています。
そのペトロが、名も分らない女の声に怯えて、「私はイエスの弟子ではない」と嘘をついたのです。
他の男から、「お前はゲツセマネの園で、あの男と一緒にいるのを見た」と言われ、この時も、激しく打ち消しました。
三度目も、同じ事を言われ、ペトロは「私は違う」と、打ち消したのです。
すると、イエス様が予告されたように、鶏の鳴き声が虚しく響いたのです。
かつてペトロは「イエス様こそ生ける神の子、私たちの救い主です」と告白しました。
その彼が「私はイエスとは何の関係も無い」と三回否定してしまったのです。
何でペトロはこれほど惨めに、無残な姿を表してしまったのでしょうか。
多くの人が、「ペトロを弱い人間だ。だらしがない弟子だ」と批判します。
しかしペトロのした事を、考えてみよう。
捕らえに来た兵士たちに向かい、戦おうとして剣を抜いたのは彼だけだったのです。
他の者たちが逃げ去っても、捕まったイエス様に、従ったのは彼だけでした。
ですから彼は、勇敢な人だったと言えるのではないでしょうか。
つまりペトロの失敗は、他の弟子たちには起こらない失敗だったのです。
彼が、勇敢だったからこそ起こった失敗だったのです。
ペトロがどんなにイエス様を、愛していたかを思い起こしましょう。
愛があったからこそ、他の者たちがイエス様を捨てて逃げ去っても、イエス様の近くに居ようとしたのです。
確かにペトロは失敗しました。
けれども、彼はイエス様を、愛する故の失敗をしたのです。
人間的には、大胆さと勇気、決断力のあるペトロでした。
その彼が、なぜイエス様との関係を否定し、イエス様を裏切ったのでしょうか。
彼が3度、イエス様を否定したという、この3には、ある意味があります。
1度ある事は2度ある。 2度ある事は3度ある。
つまり3とは繰り返されるという意味なのです。
ですからペトロの否定は単なる失敗ではなく、本心から、心の底からイエス様を否定したという事なのです。
それではなぜ勇敢なペトロが、女中や僕たちの言葉でガラリと変わって、イエス様を否定してしまったのでしょうか。
その理由を考えてみましょう。
主イエスは神の子であり、人類の救い主です。
王の王であり、人々から崇められ、賛美されるべき方です。
その方が、無力で、惨めな者として連行され、裁かれているのです。
それはペトロにとって、耐えられない事だったのではなかったでしょうか。
イエス様が神の子として、立ち上がったなら、彼も勇敢に戦ったでしょう。
また神の子として、カヤファたちを裁いて、「お前たちを恐ろしい地獄に突き落とす」と断罪したなら、喜んで「イエス様の弟子である事」を告白したでしょう。
しかし状況は、ペトロの思いとは、全く違いました。
その事を、旧約聖書のイザヤ書はこう預言しています。 旧約聖書の1149頁です。
53:2節です。「彼には見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている、
彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」と。
イザヤ書の預言通りの事を、ペトロは体験しているのです。
ペトロにとってイエス様は、もはや栄光の主ではありませんでした。
見すぼらしい、目を背けたくなる哀れな救い主でした。
イエス様がどんなに決然と兵士やカヤファたちに立ち向かっても、ペトロにとっては敗北者にしか見えませんでした。
イエス様が、いとも簡単に、ご自分を兵士たちに渡された事と、カヤファによって尋問されている姿を見て、イエス様への期待は消えてしまったのです。
ペトロにとって、主イエスは救い主の輝きも、面影もありませんでした。
彼はただ、苦しみと悲しみを、背負うだけの人にしか見えませんでした。
そのようなイエスの為に、命を投げ出す事など、到底出来ません。
これがペトロの気持ちだったのです。
しかし考えてみれば、ユダも同じ思いを抱いたので裏切ったのではないでしょうか。
ユダのした事を他の弟子たちも行い、ペトロもしたという事なのです。
しかしイエス様は、ユダの裏切りも、弟子たちの裏切りも、そしてペトロの裏切りも存知でした。
と言うことはいう事は、私たちの躓きや、裏切りもご存知なのです。
どんなに私は違うと言っても、私たちは過ちを犯し、裏切り、愛が消え、倒れてしまう事をご存知なのです。
それをイエス様はご存知の上で、救いを与えて下さっているのです。
ですからイザヤ書53:5は、続いて、こう言っています。
「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。
私たちは羊の群れ、それぞれの方角に向かって行った。
その私たちの罪を全て、主は彼に負わせられた」。
ペトロはこの事を、復活のイエスに出会った時、分ったのです。
ペトロはイエス様の苦しみの意味を、真実自分のものとする事が出来た時、もはや恐れも不安も消えていました。
神様が愛する一人子を十字架につけてまで、愛して下さったのをはっきりと知ったのです。
この神の愛に応える生き方を、ペトロや他の弟子たちは知った時、彼らは生まれ変わり、神の子として生きる者となったのです。
伝説によれば、ペトロが通ると、コケコッコーと声を出して軽蔑する者がいました。
またペトロが教会で説教をすると、同じくコケコッコーと馬鹿にして騒いだのです。
そんな時、ペトロは「私は確かにイエス様を裏切った男です。
でも、イエス様はそんな裏切り者の為に、十字架に架かって死んで下さったのです。
私は、イエス様によって救われ、新しい人生を生きる幸せを与えられました。
ですから、皆さんに救いを語る事が出来るのです」と大胆に語ッタと言われています。
私たちも主イエスの苦しみ、悲しみ、貧しさ、それら全てが私のためであったという事が分った時、神の深い愛と救いに生きる者となります。
そしてイエス様を、私の愛する救い主と告白するのです。
《それでは祈りましょう》
私たちの神様、今日、礼拝を守れた事を感謝します。
どうか、それぞれの心の内にある、願い求めを聞いて下さり、ふさわしい道を備えて下さい。 コロナの生活は、人にとって試練の時です。
どうかコロナに負けないように、心を高く上げて生活できますように。
私たちの家族や、幼子、青年たちを守って下さい。
一人で生活しておられる方や高齢の方、病気を抱えておられる方を守って下さい。
どうか一刻も早く、ワクチンが広まり、治療薬が開発されますようにお願いします。
医療や福祉に関係する方たちを守って下さい。
教会と併設されている幼稚園に関わる方たちを守り支えて下さい。
時を同じくして、全世界で礼拝が捧げられています。
どうか神様の愛と平和が、与えられますように。
今日、礼拝に出席出来ない方たちを守って下さい。
この祈りを、イエス様のお名前によってお捧げいたします。 アーメン