今週のメッセージ

ローマの信徒への手紙 1:1~6     2018、1、13

「福音の奉仕者」

今日は礼拝後に修養会があります。

それを含めて、パウロが自分を紹介した、1:1節の、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となってパウロ」を聞きましょう。

前回、パウロがイエスの僕であるのは、イエスが主人であり、自分は主イエスに仕える僕である事を聞きました。

もう一つの重要な意味が、イエスの僕にはあります。

実はイエスが、ご自分を「人の僕」として表わしている事です。

ヨハネの福音書13章には、最後の晩餐の時の話が出ています。

イエスは弟子たち一人一人の足を、洗っておられるのです。

弟子たちは驚きました。

ペトロは、「イエス様が私の足を洗うなど、勿体ないです。

どうぞ止めて下さい」と断ろうとしました。

するとイエスは、「私がしようとしている事がどういう事か、今はあなたに分からない。後で分かる」と言われ、「もし私が洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言われ、足を洗われたのです。

そして「あなたがたにとって、救い主である私が、あなたがたの足を洗ったのだ。だから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。

客の足を洗う事、それは当時、僕の仕事でした。

神の子イエスが、人の僕となって仕えておられたのです。

「その同じ事を、お互いにしなさい」とイエスは命じたのです。

愛とはどういう事かを、足を洗うことによって私たちに示されたのです。

私たちも身を低くして、イエスが愛されたように人を愛する事が大切なのです。

でも誰を愛すれば良いのでしょうか?

全ての人を愛する事を、イエスはお命じになられたのでしょうか?

人類皆兄弟と言うような博愛主義をするとか、全ての人への奉仕活動に励みなさい、とイエスは言われたのでしょうか。

しかし考えてみれば分かります。

全ての人を愛し、仕える事など私たちには出来ません。

それぞれに家庭や仕事があり、自分の生活があります。

能力には限界があります。

インドで奉仕活動をしたマザーテレサとか、アフリカの聖者と言われたシュバイツアーのようになろうとしても、事情があって出来ません。

勿論、全ての人を分け隔てなく愛する事は大切です。

でも、出来ないことは出来ません。

しかし私たちでなければ絶対に出来ない、愛と奉仕があるのです。

この時イエスは、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と、言いました。

このあなた方とは、誰を言っているのでしょうか。

イエスの弟子たちです。

つまり「イエスを信じる者同士が、お互いに兄弟姉妹として、愛し、仕えなさい」と言われるのです。

私たちが実行すべき愛とは、教会の人たちが対象なのです。

教会の私たちが、互いに受け入れ、仕えあう事なのです。

私たちはイエスの救いと愛を受けている者です。

その私たちが互いに教会の兄弟姉妹を愛する。

それが第一にすべき事です。

先ず教会の人たちを互いに愛し、受け入れる事で、愛が広がるのです。

足元を固める事が第一であって、それから外へ、愛とか慈善は広がります。

教会がキリストの愛に生かされ、慰めと喜びに満ちているなら、自然に家族や他の周りの人々も変えられて行くでしょう。

イエスは言いました。

「あなたがたは、世の光であり、地の塩である」と。

教会でクリスチャンが、相互に愛し合っている事こそが、世の光となり、地の塩になるのです。

これこそが最も強い伝道ではないでしょうか。

伝道と言いますと、言葉でイエスを伝える事だと考えるかも知れません。

でもそれだけでは不完全です。

キリストを伝えるには、私たちが互いに受け入れ、愛し合っている事実があって、初めて可能になるからです。

人間関係の様々な問題の根源には、自分一人が良ければ良いとする、自己中心の罪があります。

お互いが自分を正しい、偉いと見做し、裁き、見下したりする事から、対立や争いが始まります。

しかしお互いが僕であろうとして仕えあうなら、対立や争いは起こらないでしょう。

教会は、自分が偉いとか、あの人が偉いという所ではありません。

お互いが自分を低めて仕え合う所だからです。

イエスは人の僕になって、身を低くして仕えました。

そのイエスの姿に従ったのが、イエスの弟子たちであり、パウロであり、教会の人々でした。

私たちはイエスを愛するだけで、満足してはなりません。

互いに受け入れ、愛し合う事を、イエスが求めておられます。

こう言う人が、時々います。

とても立派な祈りをして、人をうならせます。

でも、祈りとは違った生き方をしているのです。

自己中心的な振る舞いをして、人を見下したり、裁いたりするのです。

皆さんは、そう言う人のいる教会に行きたいと思いますか?

私は行きたくありません。

言葉だけで、神の愛を語る人とは付き合いたくないですね。

知識だけの信仰などいりません。

どうしても、言葉と行いが一致している信仰者が必要なのです。

皆さんに知って欲しいのですが、愛とか奉仕に、裏表があると、信仰は絶対に伝わりません。

自分の利益のために、生きている信仰者を誰が信じるでしょうか。

ですから、この教会はキリストの愛が、金太郎飴のように、どこを見ても、神の愛が見られる生きた教会にならねばと思います。

パウロや他の信仰者がしてきたように、私たちは救い主イエスの僕であり、

同時に教会の兄弟姉妹の僕である事を再認識しましょう。

さて彼は、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と述べています。

イエスが12人の弟子を、特に使徒として選ばれたのは、ご自分と共に生活をし、イエスの愛と救いを人々に伝える為でした。

しかしパウロは、12使徒とは違い、イエスとの生活を共にしていません。

それなのに、自分はイエスの使徒であると語っているのです。

それで他の弟子たちは、「パウロは使徒でない。勝手に使徒となったのだ」と考えました。

それに対してパウロは、復活のイエスにお会いし、イエスから異邦人の使徒として選ばれた事を語りました。

使徒というのは、遣わされた人という意味でして、特別な使命を与えられて送られた人を言います。

分かりやすく言えば、ある人から委託された事を伝えるメッセンジャーとか、外国に本国から遣わされた大使と言えるでしょう。

パウロは復活のイエスにお会いしました。それは不思議な事でした。

そして福音伝道の使命を与えられて、キリストの使徒としての自覚を持ちました。

彼は生涯、使徒としての働きに誇りと喜びを持ち、やがて死んで行ったのです。

私たちも神に選ばれて、信仰を与えられています。

私たちが現在、このように教会に来ている事とか、救いを与えられているのを考えると不思議になります。

教会に来たきっかけは、友人に連れられてとか、家族がクリスチャンだったとか、通った幼稚園や学校がキリスト教であったなどあるでしょう。

それなのに、どうして自分だけが教会に残り、信仰を持つに至ったのでしょう。

不思議ではないでしょうか。

自分がしっかりしていたからでしょうか。

それはあるかも知れません。 そうでないかも知れません。

言える事があります。

自分は神様から選ばれて、イエスに出会い、信仰を与えられているという事です。

皆さんが信仰者になったのは、神によって選ばれたからと言えるのです。

それではなぜ選ばれたのでしょう。

理由がある筈です。

パウロはイエスからその理由を示されています。

ユダヤ人ではない異邦人に、神の福音を述べ伝える事でした。

福音を聞いた事のない人々が、他の国々に大勢いたからです。

それで、キリストの救いを携えて、あらゆる国々に行き、キリストへと人々を招き、神の愛と救いを伝えたのです。

それは前人未到の大変な仕事でした。

しかし彼はキリストの御委託に答えた人生を、使徒としての使命を最後まで忠実に果たしたのです。

パウロだけではありません。

ペトロやヨハネ、ヤコブ、マタイなど他の弟子たちも皆、それぞれがキリストの使者として、委ねられた使命を果たしました。

この私たちの教会においてもそうです。

特別な能力や、才能があるとは思えない、私たちの先輩たちが、キリストの救いと愛を伝え、教会を形成し、守ってきてくれたのです。

私たちも同じではないでしょうか。

私たちも救いを与えられ、神の愛と赦しの中に生かされている者です。

そのような恵みに生かされている私たちの為すべき事、それはキリストの使者、大使となって生きる事にあります。

皆が伝道者や牧師になるというのではありません。

優れた言葉ではなくて、生活の中で、キリストに生かされた者としてなら、誰にでも出来るのではないでしょうか。

家庭にあって、職場にあって、学校や友人関係の中で、すこしでもキリストを証しし、伝える事が出来たらどんなに素晴らしいでしょう。

そして特にこの教会が、キリストを中心とする群れとなり、救いと愛を人々に伝えて行けるなら、これに勝る喜びはありません。

人生の本当の意味と栄光は、そこにあります。

多くの人が自分を主張して、自分を示そうと頑張っています。

でもそれを成し遂げた後に、何が残るのでしょう。

会社で頑張っても、退社して数年も経てば忘れられてしまいます。

また家族のために一生懸命仕えて、自分の愛の深さを示しても、それは思い出の中だけの事になってしまうのではないでしょうか。

スポーツや芸術、学問の世界でも同じです。

これらは人間的には、最も崇高で、尊い価値のあるものでしょう。

しかしやがて時が来れば、全て消え失せてしまうのではないでしょうか。

パウロもかつては人からの称賛や誉れを求める人生を過ごしていました。

そんな彼がこう言っています。

「しかし以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。

それはただキリストだけに信頼し、キリストだけに望みをかけるためです。

主イエス・キリストを知っているという途方もなく、素晴らしい特権と比べれば、他のものは皆、色あせて見えます。

私はキリスト以外のものはガラクタ同然に見なし、全部捨ててしまいました。

それはキリストを自分のものとするためであり、キリストを信じる者と認められるためです」。(フィリピ3:6)

私たちは、弱くて、小さい取るに足りない者かも知れません。

そんな私たちが神の使者として用いられています。

神の使者として為すべき事は、イエス・キリストの愛と救いを生活の中で表す事なのです。

私たちが心を上に向けて、神を仰ぎ見、キリストの愛と救いに生かされて、少しでも受け入れあい、助け合って行く事なのです。

それでは祈りましょう。

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