今週のメッセージ

マルコ7:31~37      2017、10、8              『エファタ、開け』

最近は病院で手術をしても、長く居られず、短い日数で退院させられてしまいます。

病院としては早く退院してもらって、ベッドを確保したいのでしょう。

でもこれをマイナスでなく、プラスに受け取る事も出来るのです。

人は寝たきりになると、筋肉が衰えて体全体が弱くなっていくからです。

それで、なるべく体を使うように、特に足を使うと良い結果が出てくるらしいのです。

上半身と下半身の血流は上が三分の一、下が三分の二で、足を動かすと血の流れが良くなります。

ですから足は、「第二の心臓」と言われるのです。

心臓は鍛えられませんが、足ならば鍛えられます。

座わり続けたり、寝たままにすると、血液の循環が悪くなりますが、歩くならば、少しきつめの歩行をするなら、血流が盛んになり、心臓が元気になるのです。

私たちの体は、神様からのプレゼントです。

ですから健康を求めて祈りつつ、ふさわしく体を整えて、神の御心に従った人生を過ごせればと思います。

さてイエスの一向は、ティルスを去って、デカポリス地方のガリラヤ湖畔に来ました。

31節に「それからまた」とありまして、二度目の訪問なのが分かります。

一度目の訪問は、5 章にあります。

墓場の狂人がイエスに癒されて、悪霊が豚に乗り移り、二千匹の豚が、ガリラヤ湖でおぼれ死んだ話しです。

その住民はイエスに、「この地から出て欲しい」と言いました。

しかし癒された人が、イエスの御業を人々に伝えめたのでしょう。

それでその地の人々が、イエスの所に「耳が聞こえず、口がきけない人」を連れてきたのではないでしょうか。

かつては不幸な人の救いよりも、財産の豚が大切にあると思った人々が、今度は苦しんでいる人の救いを願い出ています。

何が、彼等を変えたのでしょう。

それは救われた人が、自分の住んでいる土地で、キリストの救いを証し、したからではないでしょうか。

ここに私たちは、証しの力を見るのです。

真実な証しが、イエスに対して無関心で、反対する人を変えて行きます。

ですからイエスのためにする証しや働きは、どんなに小さなものであっても、無駄にはなりません。

やがて実りをもたらします。

それを思うと、私たちはいつも信仰者としての歩みをしなければと思います。

さて人々が連れて来た人は、「耳が聞こえず、舌の回らない、つまり話す事の出来ない人」でした。

言葉による意思の伝達が出来ない。コミニュケ-ションの難しい人でした。

言葉によって、人は自分の思いを伝え、また人の思いを知ります。

創世記の2 章には、神が人間を造られた次第が、神話の形で語られています。

男がまず造られて、次に神は、「人が一人でいるのは良くない。

彼にふさわしい助け手を造ろう」と女を、男が寝ている時に、あばら骨から造ったと言われています。

「ふさわしい助け手」とはお互いに響き合う者という意味です。

言葉を通して、心が響き合う者として、人は存在しています。

私たちは人の言葉によって喜んだり、悲しんだりするのです。

言葉が通じない時は、戸惑いや苦しみになります。

この時、連れて来られた人は、他人の考えや言葉が分からず、自分の思いを人に伝える事が出来ませんでした。

彼は、人と人とのコミニュケ-ションの難しい生活をしていたのです。

しかし周りの人たちが、見るに見かねて、彼をイエスの所へ、連れて来ました。

このように問題を抱えている人を、イエスの所へ連れて行く事が、問題の解決につながるのです。

その友の為に労を担い、仕える人々がいるのは、どんなに幸いな事でしょう。

かつて四人の友が、寝たきりの中風の人を、イエスの所に運んで来ました。

そして今、聾唖の人を連れて来た人々も、友の為に労しています。

そのような人がいて人は、イエスにお会いする事が出来るのです。

私たち自身を振り返りましても、家族や友人が居て、教会に誘ってくれたので、イエスにお会い出来たのだと思います。

次は私たちの番です。

周りにいる重荷を負っている人や苦しみの中にいる人の為に祈り、共にイエスの所へ行く事、それが求められています。

さてイエスは、この重荷を負っている人を群衆の中から連れ出して、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。

それは先週、聞きましたツロ・フェニキアの女の、娘の癒しとは違います。

あの時は、イエスが娘の所に行く事も、触れる事も、話しかける事もしないで、ただ御言葉だけで即座に癒しておられます。

ところが、この時は、違いました。 何故でしょうか?

この人にとっての必要は、イエスが自分と関わりを持ち、神の恵みが分かる救いが必要だったからです。

それは人格と人格が触れ合う、一対一の関係でした。

それで、わざわざ群衆から、彼一人を連れ出して御自分の前に座らせたのです。

それからイエスは、指を男の両耳に差し入れました。

イエスが彼の弱さであった耳に、何かをされるのを悟らせる為でした。

また唾をつけて、その舌に触ったのも、唾によって彼の病気を直す事を、はっきり知らせる為でした。

唾と言いますと、子供が転んだりして、怪我をして泣いたりすると、母親が「よしよし」と言って、唾を塗ってくれたものです。

すると子供は痛みを忘れて、また元気に遊びに行きます。

今のお母さんは知りませんが、昔はそうでした。

愛する人の唾には、不思議な力があり、傷口を守り、癒す力があると考えられていたのです。

ところでイエスが触った耳も舌も、彼が何十年もの間、背負って来た重荷です。

自分の力では、どうする事も出来ませんでした。

しかしその所で、イエスは大きな事を起こされました。

主は決して、目の前にいる人をお見捨てになりません。

その人を愛し、その人に何が必要であるかを御存知だからです。

信仰は、人間的には絶望と思われる所から始まります。

イエスは、私たちの絶望を希望に変えて下さる偉大な方なのです。

ですから私たちは、御元へ行って、慰めと力を得る事が出来るのです。

さてイエスは、天を仰いで深く息をつき、その人に「エファタ」と言いました。

天を仰いだのは、上からの力、父なる神の力によるのであるのを示しています。

そしてこの時、イエスは深く息をつきました。

原語のギリシャ語では、呻くという言葉です。stenazw

ウウッと呻いて、心の底から「エッファタ」開けと言われたのです。

弟子たちは、その何とも言えない声を、忘れる事が出来ませんでした。

それでわざわざイエスの言葉そのもののアラム語で「エッファタ」の言葉を記したのでしょう。

「エッファタ、開け」、この御言葉の持つ余韻が今も私たちの耳に響きます。

あたかもそれは命令のような、懇願するかのような、そして励ましているかのようなイエスの御声が、今も響いているのではないでしょうか。

皆さん。イエスは、この人だけを憐れんで、呻き、励ましておられるのではありません。

何故なら、この人の姿は、イエスにお会いしている私たちでもあるからです。

私たち自身も、心が閉ざされています。

言葉が語られても通じない、意思の伝達が出来ない現実があるからです。

現代のいろいろな問題は、ある点でコミニュケ-ションの断絶から来ています。

親と子の心が通わない、夫と妻の心が通じない。

学校や職場でも、その他あらゆる所で、人と人との心が通わない。      その結果、心が堅く閉ざされ、孤独に陥り、反発しあい、争いが起こるのです。

つまり私たちの心の耳が、心の口が閉ざされているのです。

これが人間の悲しみや苦しみの原因ではないでしょうか。

私が石川県の小松教会に居た時です。

繊維工場の社長をしていた人が驚いたように言いました。

「いや、先生。驚きました。

うちの従業員の夫婦が、ある時ちょっとした事から夫婦喧嘩をしたのです。

それ以来、奥さんが怒って、もう二年も経つのですが、旦那がいくら話しかけても、口を閉ざしてしまい、今は会話を交わす事が一切なくなったのです。

こういう事は、身近に起こっているのではないでしょうか。

夫婦や親子でも、友人でも、心が通じない、コミニュケ-ションが出来ない。

そういう状況があると思います。

そのような私たちに向かって、イエスは、今も、呻くように、命令するかのように、懇願するかのように「エッファタ、開け」と叫ばれるのです。

さてこの人は、エッファタという言葉を受けると、たちまち耳が開き、舌のもつれも解かれ、はっきりと話す事が出来るようになりました。 癒されたのです。

それでは、その時、彼は何をまず口にしたのでしょうか。

聖書には、何も記されていません。

推測するなら、「聞こえる」とか「話せる」とか、「イエス様、ありがとう」という言葉でしょう。

それにしても、何もその事が記されていないのは、意味慎重です。

これはこの話しを聞いた私たち自身が、その言葉を表すべきだという事ではないでしょうか。

私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって、固い心の扉を開けて貰いました。

それはキリストが十字架にかかられて血を流して苦しみ、死ぬ事によって成し遂げられた御業です。

十字架によって神が、私たちを愛しておられる事を、知りました。

神は私たちを呪ったり、怒ったりされません。

神は皆さんを愛し抜いて下さるのです。

さらに十字架は、人と人とを結びつけてくれます。

現代人に、欠けているものは人への愛です。

愛がないので、人と人が憎み合い、不信が広がるのです。

けれども神の愛を受けるなら、人はその愛によって、人に接し、心を開く事が出来るのです。

神の愛は、思想や立場、年齢や性別を越えて人の心を開き、お互いのコミニュケ-ションを可能にしてくれます。

これが私たち信仰者全てに与えられている恵みです。

ですから「エッファタ、開け」という言葉は、私たちに今も響き続ける言葉なのです。

さて最後に、マルコ福音書は人々が主イエスを賛美する言葉で、この物語を終えています。

「この方のなさった事は、全て素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる」と。

古代のある教会では、エフッアタという言葉と唾をつける事を、洗礼式の中に組み込んで儀式として行っていた、と言われています。

洗礼が、人生の新しい誕生を象徴し、エファタの言葉を受けて、聖霊により心が開かれたと考えるからです。

その恵みの世界に、私たちも招かれている事を喜び、感謝したいと思います。

それでは祈りましょう。

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