今週のメッセージ

ヨハネによる福音書 2:23~3:9       2019、4、7

「新しくなった人生」

今日は選挙の投票日です。

選挙は、社会への責任であり、神様からの特権であるのです。

ですから棄権をしないで、投票に行かねばと思います。

実は昨日、幼稚園に子どもが通っている、伊波としのすけさんの演説会が、お寺の東福院でありました。

今日礼拝に出ておられる藤木幸夫さんが、先ず推薦の挨拶をされました。

その中で、日曜日には教会の礼拝に、出席されておられる事を、選挙応援の中で、言われたのです。

これには驚きました。

その席には、新井喜久代さんの息子さんもいましたが、意表を突く藤木さんの応援に続いて、本牧神社の神主さんもしました。

お寺を舞台にして、神主さんと牧師がいたのですから、仏教、神道、キリスト教が集まった事になりました。

最後に、伊波俊ノ助さんが演説をされました。

伊波さんは介護福祉士の2級の免許を持っておられるのです。

市議会議員で介護士の資格を持っている人は他にいません。

介護士の経験を通して、福祉の大切さを語っておられました。

また教会と幼稚園の庭には沢山のチューリップが咲き乱れていますが、その球根を寄贈してくれたのが伊波さんでした。

ですから、とても暖かく優しい人柄であるのが分かります。

こういう人が、市議会議員になって欲しいと、私は思っております。

さてイエスは、都エルサレムで福音を語り、幾つかの奇跡を行い、多くの人がイエスを信じました。

ところが24節に、「イエスは彼らを信用されなかった」と言われています。

なぜ人の信仰を退けたのでしょう。

信仰なら何でも良いというのでなくて、その中身が大切だからです。

自分の利益とか欲望を満たす信仰が、あるからです。

特に奇跡を見て、信じた人々の信仰を、主は信用されませんでした。

彼らの信仰が、奇跡によってご利益を受けたいという自己中心を、見抜いておられたからです。

それでは本物の信仰とは何ういうものでしょう。

神を心から愛する信仰です。

神を愛し、喜びも苦しみも受け取る信仰です。

イエスはそのような信仰を喜ばれ、求めておられるのです。

しかし私たちに、そのような純粋な信仰があるのでしょうか。

私たちも、自分本位の人間であるからです。

どんなに綺麗な事を言いましても、最後には自分が可愛い事が出てしまいます。

それが今日の人物ニコデモによって表わされているのです。

彼は宗教指導者で、国会議員70人の一人でした。

ですから、とても地位の高いエリートでした。

そのニコデモが、ある夜イエスの所に訪ねて来たのです。

なぜ夜に来たのでしょう。

イエスの所に行くには、頭を下げて、教えを乞わなければなりません。

そんな姿を人に見られたくなかったので、夜の訪問者になったのでしょう。

また「夜」とは、彼の心が、夜のように暗かったのを暗示しているかも知れません。

金持ちでエリートの人間が、夜の訪問者として、秘かに教えを乞いに来ました。

でもそれは、恥ずべき事ではありませんでした。

イエスを求める、真剣な歩みであったからです。

この夜の訪問者であるニコデモに、私たちのかつての、または今の自分を見るのです。

こっそりと、人目につかないように、イエスを求めるのです。

そのような私たちを、何時の間にかイエスは、明るい昼の訪問者にしてくれました。

イエスを信じる喜びに満たされて、胸を張って生きる者へと私たちは変えられているのです。

さてニコデモは尋ねました。

「ラビ。私どもは、あなたが神のもとから来られた教師である事を知っています。

神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行う事は出来ないからです」と。

ラビと言うのは、先生という言葉です。

ニコデモはイエスの語る神の国の教えや、その奇跡を見聞きしました。

イエスには真理と力が溢れていました。

その言葉には、人を生かす神の命がみなぎっていました。

ニコデモはそのイエスに、心を強く引かれたのです。

「この方は、何と素晴らしいのだ。

今まで見た事も、聞いた事もない、偉大な教師である。

このような方は、何処にもいない。

そうだこの方は、神の所から来られた人類の教師である。

神がいつも共におられる方である。

この偉大な教師から、私は真理を学び、神に至る道を学ぼう。

そして神の国の人間として生きて行こう」と願って、来たのです。

イエスは彼の願い求めに対してこう答えました。

「はっきり言っておく」。原語ではアーメン、アーメンと繰り返されています。

「真実に、真実に、私はあなたに語る」と言われたのです。

そして「ニコデモよ。あなたの願い求めを一言で言うなら、それは神の国を見る事である」とイエスは言われたのです。

「神の国を見る、つまり神の国に入って、自分の目で、偉大な真理を見るならば、心からの喜びに溢れる」と言われたのです。

けれどもそれには、一つ条件がありました。

生まれ変わって新しい人間になる事でした。

なぜ新しく生まれ変わらなければ、神の国に入れないのでしょう。

清くて、罪や過ちを犯さない人だけが、神の国に入れるからです。

しかし聖書は言います。

「正しい人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。

神を求める人はいない。

全ての人が迷い出て、ことごとく無益な者となった。

善を行う者はいない」と。ロマ3章。

赤ん坊のつぶらな瞳やその愛らしい仕草を見ていますと、呟いてしまいます。

「この赤ん坊のように、罪や汚れを知らない、清い人間になれるなら」と。

イエスはその事を言われたのです。

「ニコデモよ。あなたは神の国に入り、神を見る事を願っている。

それは素晴らしい願い求めである。

だがそのためには、新しく生まれ変わらなければならないのだ」と。

ニコデモはその言葉に驚きました。

それで直ぐに反論しました。

「年を取った者が、どうして生まれる事が出来ましょう。

もう一度母親の胎内に入って、生まれる事が出来るでしょうか」と。

「年を取った者」と、自分を言っていますように、ニコデモはかなり年を取っていた人かも知れません。

彼は「赤ん坊になって、再び生まれてくる事は不可能だ」と考えたのです。

しかしイエスは、神の力によるならば、赤ん坊にならなくても、新しく生まれる道があるのを告げたのです。

「誰でも、水と霊によって生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。

肉から生まれた者は肉である。

霊から生まれた者は霊である」と。

これは水と霊によれば、誰でも生まれ変わり、神の国に入る事が出来るという事なのです。

それでは「水と霊によって生まれ変わる」とは、何を意味するのでしょう。

色々な解釈がありますが、水は汚れを洗い落とします。

それは洗礼の水を意味していると考えられます。

洗礼の時、水が頭に垂されます。

目には見えない罪も汚れも、神の供えた聖なる水によって清められるのです。

そして新しい人生が始まります。

イエスと共に生きる人生です。

肉体は前と変わりありません。

けれども、罪と汚れに支配されない新しい人生が始まるのです。

ところで皆さんは、今の自分とは違う、変身願望を持った事はないでしょうか。

文学の世界でも、永遠に若い青年になるため、魂を悪魔に売ったゲーテの小説「フアウスト」とか、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」があります。

いずれも変身願望を実現するために、悪魔と取引をしています。

しかし、新しい人間に生まれ変わって、何をしたのでしょう。

自分の夢の実現でした。

でもそれは悪く言えば、欲望の追求でして、最後には罪と汚れの泥沼に落ち込んで、悲劇的な結果になっているのです。

罪や汚れに支配されない、新しい人間として誕生しない限り、何回生まれ変わっても、同じ結果になってしまいます。

さてニコデモは、「生まれ変わる事など出来ません」と、言いました。

しかしイエスは神の力によるならば、赤ん坊にならなくても新しい誕生の道がある事を厳かに、告げたのです。

それは神の子としての出発であり、神の民としての新しい人生です。

神から流れて来る聖霊、神の命、息吹に触れて起こる事なのです。

それがどう言う事かを、イエスは語りました。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆その通りである」と。

風が自由に吹くように、聖霊の働きも思いのままに動いて、人に働くのです。

人は風を見ることが出来ません。

同様に、聖霊を見る事は出来ません。

けれども見えない風が吹く時、木の葉がカサカサと動いて、風を感じます。

同様に聖霊は目には見えませんが、聖霊によって、人が新しくされて、新しい生活が始まっているのを、見る事は出来るのです。

ニコデモはその話を聞いても、信じられませんでした。

「どうしてそんなことがありえましょうか」と叫びました。

彼は目の前にいるイエスが、神からの救い主である事に気づいていません。

どこまでも偉大な教師、人間イエスでしかありません。

「人には出来ないが、神には出来る。

不可能を可能にする神の力、聖霊の働きがある」とを語るイエスが、神からの救い主であるのを、認める事が出来ませんでした。

それでは彼は、イエスを理解出来ないままに、その生涯を終えたのでしょうか?

しかしこの訪問の3年後の事です。

イエスが十字架につけられ、死んだ時、ニコデモは人の批判や反対を押し切って、アリマタヤのヨセフと共に、イエスの遺体を受け取り、没薬と沈香を塗って墓に葬ったのです。

この時、弟子たちは皆逃げ去っていました。

ニコデモはイエスを心から愛し慕う者として、自らに降りかかる危険を承知の上で、イエスの遺体を受け取ったのです。

彼はその後、復活のイエスに出会い、本当の新しい誕生を経験したでありましょう。

彼は疑いながらイエスを求めつづけ、最後に神の子、神の民として生まれ変わった人であったのです。

聖書は語ります。

「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された人です。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたのです」と。Ⅱコリ5:17

人は水と聖霊によって、キリストに結ばれます。

そして神の救いと命を受けて、新しい生き方を始める事が出来るのです。

もはや罪と汚れに支配されません。

もしも負けたとしても、十字架の救いと赦しがありますので、私たちはいつも新しい者として生きて行く事が出来るのです。

これは何と喜びと感謝に満ちた誕生でしょう。

どうか新しく造られた者として、神を愛し人を愛して行こうではありませんか。

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