今週のメッセージ

ヨハネによる福音書8:21~30     2020、2、16

「イエスは真理」

名監督と言われ、慕われた野村克也さんが、先週亡くなりました。

長嶋茂雄さんが、その死を痛んで、「どうか天国で安らかにお休みになって、私たちを見守って下さい」と言っていました。

その通りだと思いました。でも、ある違和感を持ったのです。

天国という言葉は、本来、日本の宗教、仏教や神道では、使わないからです。

天国はキリスト教独自の言葉です。

しかし今では、誰もが死んだら天国に行き、眠るのだと言います。

これはキリスト教の葬儀を経験した人たちが、「黄泉の国や」「極楽」より、「天国」の方が良いと考えたからでしょう。

また「死ぬ」という言葉よりも、「眠る」とか「永眠」という言葉の方が良いと思い、使うようになったのでしょう。

ですからキリスト教が溶け込んだ、と言えるかも知れません。

それでは、キリスト教を信じている、本家本元の皆さんは、どうでしょうか。

皆さんは死んだら、天国に行けるのか、地獄に突き落とされるのか。

確信を持って答えられるでしょうか。

今日の聖書は、その答えです。

私たち信仰者が何故天国に入れるか。永遠の憩いを手にできるか、その理由を、イエスは語っておられます。

この時イエスはエルサレムの神殿で、教えておられました。

この時、厳しい言葉で言いました。

「私は去っていく。あなたたちは私を捜すだろう。

だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と。

これが彼らに衝撃を与え、混乱を引き起こしまた。

私たちも考えてしまいます。

「イエス様が、人を突き放す言い方をしておられる」と。

しかしこれは、人が、罪と死に陥らないための、警告なのです。

イエスは、「私は去って行く」と言われました。

人々から憎まれ、捕らえられ、十字架につけられて、死ぬ事を意味しています。

けれども、死んで終わりではないと言われました。

復活によって、父なる神の元へ、栄光の座へ、戻られるのです。

それを否定する人たちに、どのような事が待ち受けているかを、告げました。

「あなたたちは、自分の罪のうちに、死ぬ事になる。

なぜなら私の行く所、つまり神の国、天国に行く事が出来ないからだ」と。

イエスを失うなら、人は罪のうちに死ななければなりません。

何故でしょう。

イエスだけが、人を罪と死から救い出す、神からの救い主だからです。

イエスを否定するなら、救いを否定する事です。

聖書の言葉であるギリシャ語によるなら、罪とはハマルテヤと言いまして、的外れという意味です。

人は本来、造り主である神を求め、神の愛を受けて、歩むべき者でした。

しかし神から離れ、物や欲望を神にして、その奴隷になったのです。

「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」とは、永遠の地獄が待ち構えている事を言います。

聖書の語る地獄とは、罪や欲望が神の代わりになって、人を永遠に支配する所です。

「女たちのジハード」という小説を書いた篠田節子が、「38階の黄泉の国」という不思議な短編小説を書いています。

それは脳動脈が破裂して、死んで行く妻が、黄泉の世界に行くという話です。

小説では、黄泉の世界が、ホテルの最上階の38階なのです。

妻には学生時代から、付き合っていた男がいました。

相手の男は、仕事熱心なサラリーマンで、互いに家庭がありながら、結婚後も38階の部屋で、逢引を重ねていました。

男は10数年前に、会社で帳簿を調べながら死んでしまいました。

ところが何故か彼女は、死の間際に、死んだ男と一緒に38階の部屋にいるのです。

二人とも逢引を喜びますが、部屋から出ようとして、エレベーターに乗ります。

一階のボタンを押してドアが開き、出て行きますと、フロントではなくて38階のフロアーに戻っています。

何回、試みても38階に戻ってしまいます。

ホテルには、二人以外に人は居ず、明かりもぼんやりで、夜にも朝にもならないのです。

二人は閉じ込められたのかと不安になり、ようやく自分たちが地獄にいる事に気づいたのです。

二人だけの世界で何をしたかと言うと、お互いの責任をなすりつける事でした。

女は言います。「こんな所にあなたとずっと閉じ込められるなんて、たくさん」と。

男も「うんざりだ。出て行け。

永遠に閉じ込められるなら、一人の方がよほどましだ」と言います。

そして二人とも、腹を立てて部屋を出て、他の部屋のドアを開けるのです。

けれどそこも、自分たちのいた部屋であって、同じ部屋に戻ってしまうのです。

彼女には夫も子供もいるのに、地獄に対しては何の力もなく、ただ閉ざされた38階での虚しい生活が繰り返される、という不思議な物語です。

私はこの小説を読みながら、自分の罪のうちに死ぬとは、こういう事かと思いました。

救い主イエスのいない世界、それが地獄です。

自分が信じ、頼っている、欲望や物しかない世界、それが地獄なのです。

しかしその反対に、イエスを救い主として求めるなら、自分の罪の内に死ぬ事はありません。

その理由が、今日の個所で、イエスは明らかにしておられます。

繰り返し言われている、「私はある」という、言葉です。

これはイスラエルの民を率いるモーセが、シナイ山で神にお会いした時、「あなたはどういう方ですか」と尋ねた時の神の言葉でした。

神は、「私はある。有ってある者」と言われました。

その意味は「神は永遠に存在します方」とか、「神は昔いまし、今いまし、これからも永遠に、共におられる方」と考えられます。

その言葉で、「イエスはご自分を、永遠の救い主」として告げておられます。

私たちだとどうでしょうか。

4年、5年経てば変わり、50年、100年経てば、どんなに元気な人でも、消えてしまいます。

しかしイエスは、永遠に変わらない方です。

マタイ福音書の最後で、イエスはこう約束されました。

「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

「永遠におられるイエス」が、私たちを愛し、守り、導いて下さるのです。

そのイエスが、救いの御手を私たちに差し伸べて下さるのです。

もしもその手を、振り払い続けるなら、どうなるのでしょう。

神の救いは虚しく、通り過ぎるのではないでしょうか。

ですからこう言えるのです。

人が罪を犯すのは、悲しい事です。

でも救いようのない事ではありません。

本当の悲しみがあるからです。

イエスの救いを、捨ててしまう事です。

イエスは喜んで、救いを与えて下さるのです。

それを拒み続けるなら、人は自分の罪の中に、永遠に埋没しなければなりません。

これこそが人生、最大の悲しみです。

ですから私たちは、虚しい人生を過ごさない為に、イエスの救いに生きるのです。

イエスは全ての人に、神からの救いを与えようとされました。

しかしある人々は、受け入れ、ある人々は受け入れませんでした。

やがてイエスは、この世を離れて、神の御国へと行ってしまいます。

後になってから、「イエスの救いを信じたい」と願っても、遅いのです。

イエスは遠い所へと行ってしまわれるからです。

皆さんはギリシャ神話に登場する、幸福の神の姿をご存知でしょうか。

前髪はふさふさですが、後ろの髪の毛は一本も生えていません。

幸福の神が、前から来た時、逃さずに髪の毛を掴むなら、幸福になれます。

しかし後になって気がつき、去り行く幸福の神を掴もうとしても出来ません。

後ろの頭に毛はなくて、ツルツルだからです。

私たちは過去を懐かしんでは、あの時ああすれば良かった。

こうすれば良かったと思います。 でも幸福は既に通り過ぎているのです。

それでは神の救いも、一度掴めなかったら、二度と掴めないのでしょうか。

イエスが、身を低くされて、「さあこの救いを受けなさい」と言われるのに拒むなら、どうなるのでしょうか。

叉の機会があるのでしょうか。

イエスの救いにも、限りがあると言わねばなりません。

仏教の言葉ですが、美しい言葉があります。「一期一会」という言葉です。

人と人との出会いは、人生一度限りとして、大切にするという言葉です。

その中でも、イエスとの出会いは、最も大切で、価値あるものです。

私たちはイエスと出会う事によって、人生を豊かにし、慰めと希望を手に出来るのです。

そのイエスから差し出されている救いを、今、受け取り、イエスを愛し、答える事が大切なのです。

だからこそ、イエスの救いを戴いて、生きるのです。

さらに私たちの人生は、永遠に続くものではありません。

やがて死ぬからです。

確かに、長生きをする人もいれば、短かい人もいるでしょう。

でも人生は、長くても短くても、素晴らしくなります。

イエスと共に生きる事が、人生最大の目標であり、生きがいだからです。

他の事は、どんなに素晴らしくても、やがて消え去ります。

しかし、イエスの救いと祝福がは、永遠に皆さんを守るのです。

その為には、今という時を大切にして、イエスを信じる。

そしてイエスと共に生きる事なのです。

私が以前いた北陸で、こういう人がいたと、ある牧師が報告しました。

地方銀行の元頭取で、退職後は奥さんに従って礼拝に出ていました。

彼は教会に来ていましたが、洗礼を受けるのは遠慮していました。

その台詞は、「人生の最後にイエス様を信じて、洗礼を受けたい」でした。

要するに、「今は自分の好きな生活をしたい」と言うのでした。

こういう人が時々います。

その彼が、重病になって、臨終が近いのを悟りました。

すると牧師を呼んで欲しいと願い、病床で悔い改めて、洗礼を受けて死にました。

牧師は、上手く行って良かったと思いました。

でも殆どの人が、そう行きません。

救われる事なく、息を引き取っているのです。

イエスを受け入れる決断を延ばしている人は、思い違いをしています。

自分の人生が、限りなくあるという思い違いです。

人生は分かりません。

今、決断出来ない人は、その後も出来ないでしょう。

ひょっとすると、死んでも出来ないでしょう。

それからもう一つの思い違いがあります。

イエスと共にある人生を、退屈で、喜びがない生活と考えているのです。

イエスと共にある人生は退屈ではありません。

神を愛し、人を愛する生活が私たちに、生きる喜びを与えてくれるからです。

勿論罪の誘惑に負けたり、知らず知らずに罪を犯してしまう事もあります。

でもそのような時にこそ、救い主イエスがおられるのです。

このイエスを仰ぎ、愛する生活、これが私たちの人生を確かにし、価値あるものとしてくれるのです。

それはこの地上を去ってからも続きます。

永遠なるイエスが、共に居てくださり、神の愛と愛に満たされるからです。

ですから私たちは、確信を持って言えます。

私たちは天国に迎えられて、永遠にキリストと共に生きるのだと。

この希望が、私たちを生き生きとしてくれて、充実した日々を過ごせるのです。

それでは祈りましょう。

 

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